大澤信亮

批評家・日本映画大学教授

今月の仕事

「新潮」10月号の「小林秀雄」第4回の梗概です。

今回は幕末明治の日本とフランスの関係から入りました。1910年の大逆事件で文学から政治が切り離されることで、明治以来、実学性を問われてこなかったフランス文化が結果として隆盛した。そのなかで小林のフランス文学受容も形成された。それが、ボードレール象徴主義(=目の前の現実を否定して言葉による自立した空間の構築を目指す欲望)と共鳴するが、小林はその自閉性に息苦しさも感じていた。そこにランボーが「外部」を見開かせる。そういう小林を、彼の十歳年長で、やはりボードレールに魅了されていた芥川龍之介と対比させながら描きました。

今月は非常に大切な対談も控えています。お楽しみに。

今月の仕事

「新潮」9月号の連載「小林秀雄」第3回は、富永太郎と、小林の小説について書きました。大岡昇平江藤淳以来、小林と富永の相互批評は肯定的に論じられてきたのですが、ここでは内容に即せば読み取れる、すれ違いに注目しています。その上で、何十年かけても忘れない、死んだ友達のことを考える小林の気持ちを想像しました。

「波」9月号(今月27日発売)に藤野可織氏『爪と目』の書評を書きました。ネットでも読めるはずです。

僕の知る『新世紀神曲』の書評です。

山城むつみ「ブツなき内省のゆくえ」(「群像」9月号)
赤木智弘「内省という名の闘い」(共同通信欄)

両氏とも大変真摯に書いて頂き、この場で軽々しく返答できません。

『新世紀神曲』書評

僕の知っている現時点での『新世紀神曲』の書評をお知らせします。

古川日出男「「密室」を開くための、問いの連打」(「波」6月号)
安藤礼二「批評、その破壊的再構築」(「新潮」8月号)
池田雄一「その部屋にロマンスはあるのか」(「文學界」8月号)
池田雄一「文芸時事放談」(「図書新聞」7月13日)
杉田俊介「怒りと優しさ、そして淋しさ」(「すばる」8月号)

こんな風に列挙するのも申し訳ないのですが、月刊誌も意外とサイクルが早いので、書店で見かけたら、ぜひすべて読んで頂きたいと思います。頂いた言葉は時間をかけて考え、作品や行動で応えていきます。それからネット上で感想を書いてくれた方々にも感謝しています。この本はとても無防備なところで書かれています。前著のような「自負」はなく、読んでくれる人はいるのかという恐れと、読まれるのが怖いという、二重の恐怖を感じています。

なお新宿紀伊国屋本店のフェアは今月中旬あたりまでとのこと。

『新世紀神曲』の扉

この棚は担当者の方が異常なまでに拘ってくださったものです。僕のメッセージもありますので、期間中、ぜひ覗いて頂けると嬉しいです。

連載「小林秀雄」(「新潮」)は志賀直哉について書いています。

小林秀雄

本日発売の「新潮」7月号より連載「小林秀雄」を始めます。

わざわざ誌面を頂く以上、色々な企みはあります。しかし、僕の問いを率直に示せば、すでに「新潮」4月号に発表した「小林秀雄序論」で書いたように、

どうすれば抜け殻の集積から「生命」を生み出すことができるのか。それを行う者はいかなる境地にあらねばならないか。その境地に到ろうとすることと、物質的には私性に属しているかに見える意識=批評を「無私」へと到らしめようとする努力は、いかなる関係にあるのか。その試みと、物質から生命を生み出した力は、そして、宇宙そのものを生み出した力は、いかなる関係にあるのか。

というようなことを考えています。もちろん問題は、このような議論を口上ですることと、そのような境地に到ることはまったく違うということです。むしろ僕は、この種の議論を拒絶することが、それを実行するための第一歩だと思っています。この論じない批評がどこまで行けるのか。長い道ですがご期待ください。

なお「群像」の島田雅彦氏、谷崎由依氏との創作合評は、今月で終わりです。

新世紀神曲

今月31日に2年半ぶりの第二著『新世紀神曲』が刊行されます。

『新世紀神曲』

収録は、「復活の批評」(「文學界」2011年3月号)、「出日本記」(「群像」2012年5月号)、「新世紀神曲」(「新潮」2012年12月号)の3本。結果的に、順に、現代批評論、現代社会論、現代小説論となっています。

いずれも論と呼ぶには相当型破りですが、奇を衒ったつもりはありません。言葉は自分自身の在り方を問うように使うときこそ最大の力を発揮する。それ以外の言葉は本当は生きることと関係がない。だから。論争をするなら、数や追従やレッテルではなく、自分の言葉でやるべきだ。社会の混乱について語るなら、自分の混乱を見つめるべきだ。小説について書くなら、その試み自身が小説的であるべきだ。これが批評である。この原則は前著『神的批評』と変わりません。

しかし、この原則は変わらぬまま、重大な態度の変更がありました。これについてはここで説明するよりも、実際に本を読んで欲しいと思います。

刊行にあたって付記すべきことは「あとがき」に書きました。一つだけ「復活の批評」発表時を思い出して加えれば、原文を読まずにネット上の印象操作につられて欲しくないということです。この文章は「大澤はマンガやアニメを差別している」みたいな訳のわからないレッテルを貼られ(僕がそれらからどんなに影響を受け、それらを大切にしているかは、『神的批評』でも、それまでの活動でも明言・体現してきたことなのに)、議論の内実は問われずただ「炎上」し、その一ト月後に起こった東日本大震災で有耶無耶になってしまいました(その意味でもっとも書籍化を望んでいた作品です)。そういう光景は相変わらず、そこかしこにあるようです。僕自身も無縁とは言い切れないから、批判するなら、せめて対象となる原文を自分で読んでからにしようと決めています。なので、はじめて読む人も、かつて僕を叩いた人も、そのように読んでくれるよう頼みます。たとえ、それが話題になるということだとわかっていても、著者としては、現物を読んでもらえるようお願いするしかないのです。もちろん、このような経緯を知らない人にはまったく余計な話で、本当は、ただ読んで欲しいと思っています。

真の意味で文学・批評・思想の炎が燃え上がることを願っています。

付言

このタイミングで僕の勤務先である日本映画大学の「誓約書」問題が炎上しています。一言だけ言っておけば、僕は自らの信念に照らして、友人・関係者の皆様の信頼を裏切るようなことは決して行っていません。報道には事実と異なる部分があります。いずれ真実が公的に明らかになると思います。御安心ください。

今月の仕事

7日発売の「新潮」6月号に山城むつみ氏『連続する問題』の書評を書きました。

今月も「群像」で島田雅彦氏、谷崎由依氏と創作合評をやっています。

月末に2年半ぶりの第二著『新世紀神曲』が出ます。詳しくはまた後ほど。

小林秀雄

本日7日発売の「新潮」4月号から連載「小林秀雄」を始めます(正式には6月発売の7月号より開始ですが、僕は初回のつもりで書きました)。

これまで連載や依頼という形式を避けてきたのは、締切に追われて作品が駄目になることを恐れていたからです。事実や論理の確認ミスもそうですが、最悪なのは、行くところまで行けずに時間切れになることでした。また、一本でも失敗原稿を書いてしまったら、新人はそれで終わりだと覚悟していました。

しかし、一冊目の本を刊行し、二冊目の本の刊行も決定した今、新しいことをやってみたくなったのです。いい加減そろそろ書くことの次元を上げたい。好きなだけ時間をかけて、納得できたものだけを発表するのではなく、失敗や停滞を呑み込みながら、書き手と読み手の時間を変えるようなものを。たとえば、月曜日にコンビニに走り「来週はどうなるんだろう」と待ち遠しい気持ちで何度も再読した、あの「ジャンプ」体験を目指したい。そんなことが果たして批評というジャンルで可能なのか。そもそも文芸誌で可能なのか。わかりません。

とにかく、連載をやる以上は「本になってから読めばいい」ではなく、毎回「新潮」を手に取ってもらえるよう、心と体を整えながら頑張ります。

今月の仕事

今月7日発売の「新潮」12月号に「新世紀神曲」という作品を発表します。執筆は「批評と殺生」(「新潮」2010年4月号)の頃に開始し、例の「復活の批評」(「文學界」2011年3月号)があり、震災論「出日本記」(「群像」2012年5月号)があり、ほぼ3年かかっての完成です。分量も260枚と今まで書いたもののなかでは最大です。読んで下さい。

宣伝

下記のイベントに出席します。

6月30日 「以後」の「批評」のために

出演者は、佐々木敦氏、千葉雅也氏、速水健朗氏。このイベントは映画美学校での佐々木氏の連続講座「批評家養成ギブス」のプレ・イベントです(ちなみに僕は10月31日の講義を担当します)。ぜひいらしてください。

有限責任事業組合フリーターズフリーの解散について

2012年3月をもって有限責任事業組合フリーターズフリーは解散しました。

僕が有限責任事業組合フリーターズフリーに参加したのは「弱い者がさらに弱い者を叩く社会構造のオルタナティブを示す」という理念においてでした。たとえば僕が一貫してこだわっているのは、資本制を成立させるための原始的蓄積や、それを回転させるための相対的過剰人口という「構造的暴力」であり、それを前提とすることの上に成立してきた社会それ自体を疑うということです。単純に賃金が上がったり保障が充実すればいいという話ではありません。だから、不安定労働者を一方的に被害者と考えたこともないし、よく揶揄される「権利要求」のみを行ったこともありません。また資本制や私的所有を直ちに全面的に揚棄できるとも考えていません。それらの所与の現実の諸条件の先に「来るべき自由」を見ようとしているだけです。この機会に改めて強調しておきます。

フリーターズフリーから離脱(組合としては解散しますが雑誌は続きます)するということは、その理念がフリーターズフリーでは十分に実現できない、そう僕が結論したことを意味します。理由は一口には言えません。自分が不安定就労の当事者ではなくなったという事実はあります(とはいえ有期雇用なので今後どうなるかはわかりません)。でもそれだけではない。自分のなかでまだ理解できていないこともあります。しかしいずれにせよ、フリーターズフリーに参加できたことは、生まれてきた性質からして協働作業に向いていない僕にとって、奇跡的な得難い経験となりました。

この間3号を待ち続けてくれた方がいると思います。ご期待に応えられず申し訳ありません。しかし、ここで一度仕切り直すことで、フリーターズフリーは新たに動き始めるでしょう。僕は当面、自らの認識や感覚や倫理の核を鍛え直す仕事を進めつつ、その試みに呼応してくれる人を気長に探します。そして機が熟したらまた何かやるつもりです。

最後に、不安定労働者としての自分に何度も言い聞かせてきた言葉を、今この瞬間にフリーターとして生きる若い人たちに贈ります。気高くあれ。卑怯や虚栄や追従や嘲笑が世に蔓延ろうとも、君の精神だけは誰よりも高貴であれ。日々の生活が苦しくても貧しくても愉快であれ。君がそう在ろうとする限りで出会える未来の友を信じろ。負けるな。

ありがとうございました。いつかもっと成長した互いで出会い直しましょう。

宣伝二つ

今月出席するイベントです。どちらも参加自由で無料です。

11月6日 3・11以後の社会と私たち(恵泉女学園大学学園祭)
11月17日 批評ということ(静岡県立大学看護学部)

僕は3月11日以降、難航している別の長編批評とともに、ずっと災害論の準備をしてきました。今年の恵泉女学園の講義も震災と原発をテーマにしています。現時点で何が話せるかわかりませんが、せめて、どんなことを考えようとしているかだけは話そうと思います。

後者は縁あって引き受けさせて頂くことになりました。第一部では僕がいかに生きてきたのかを、看護という困難な他者との対峙を生業に選んだ若い人たちにお話ししようと思います。第二部ではもう少し批評や理論寄りの話、あるいは現在準備中の論考などについて話す予定です。懇親会もあるようですので、静岡方面にお住まいの方(でなくてももちろんかまいませんが)で興味がある方は是非。

坂口安吾研究会

直前ですが以下のイベントの告知です。
9月24日 いま、安吾を読む(坂口安吾研究会)
僕は坂口安吾について何かを書きたいと思ったことがありません。文学的な評価が高いことも知っているし、心をつかまれる言葉も確かにあるのですが、根本的に不徹底な人だったと思っています。そのことを見ずに「いま、安吾を読む」ことは僕には出来ない。はっきり言えば、高名な「堕落論」も、結局は「島原の乱」や「天草四郎」を書けなかったことの言い訳にしか読めない。これを安吾研究の専門家の前で説得的に語れるかわかりませんが、僕にとって安吾を本当に切迫して読むとは、そういうことになる。キリシタンと対峙することが彼に何をもたらしたのか、しかし、彼はなぜ対峙し切ることができなかったのか。そういうことを考えることが今の自分には大切に思えます。そこにあったはずの可能性を自分の頭と体で継続するのが批評という行為なのだから。どなたでも自由に参加できるようなのでぜひ。

思想の登龍門

今月21日に朝日カルチャーセンター新宿教室で下記の講義をします。

思想の登龍門

昨年10月の『神的批評』の刊行以来、いわゆる刊行記念イベントのお誘いはすべて断ってきました。「ロスジェネ」4号でも話した通り、僕はイベントや公開トークにあまり可能性を感じません。それに刊行後は「復活の批評」を書き上げるのに精一杯でした。今も次作と次々作、それから新しく始まった大学の仕事など、全力でやらねばならないことが山積みで、とても話芸を披露している余裕はない。しかし一方で、僕は自分の文章がどのような人にどのように読まれているのか、本当のところよくわからずにいます。一緒に何かを考えてくれる人はどこにいるのか。業界の現状にうんざりして、勝手に孤立無援の気になるにはまだ早いのかもしれない。この講座は値段が高いということもあり、参加者にとっても、自分にとっても、決定的な経験の場にしたいと考えています。本の紹介や解説でお茶を濁すつもりはありません。そのために受講条件を付けさせて頂きました。ただし理解度は問いません。