大澤信亮

批評家・日本映画大学准教授

イベント告知

下記のシンポジウムを開催します。昨年の紀伊国屋サザンシアターのイベントでは、東浩紀さん、赤木智弘さん、雨宮処凛さん、萱野稔人さん、杉田俊介さんという豪華メンバーをお招きしましたが、今回も、文学者の小森陽一さん、美術家の会田誠さんという、これまたあり得ない奇跡的なマッチングになりました。
8月10日 近代100年の問い(紀伊国屋サザンシアター)
僕は昔から、自分の現実を問わず次から次へと「ネタ」を消費する「知的遊戯」がどうにも退屈でした。手応えがない。何かを避けている気がする。それに、おもしろいものは他にいくらでもある。もし「考えること」がスリリングであり得るとしたら、それは自分の足元を揺さぶられる経験のなかにしかない。現在の活動も「資本制下において言葉を発するとはどういうことか」という内省=自己批評の延長上にあります。
たとえば、提示した瞬間に消費され、忘れられる「偽の問題」の過剰供給それ自体が資本制の病理であり、それは「考えること」を矮小化するだけでなく、今や自転車操業的ななし崩しのなかで出版市場そのものを逼迫させている。この負のスパイラルをいかに食い止めることができるのか。生産・流通・消費の構造変革は必要でしょう。でもそれ以前に消費されない・消費し得ない問いをつかまなけれならない。私たちが真に「今」を思考するためには、過去へと遡行し、そこに連続している問いを「切開」(「明暗」)することが必要なのではないか。
漱石と藤田を過去の偉人として見るのではなく、私たち同様、グローバリゼーションの荒波に翻弄された存在として見ること。それが近代文学と近代美術の出発点にあり、その上に私たちの文学と芸術があることの意味を考えること。僕は若者論や格差論をやっているつもりはありません。根本的なことを考えているだけです。活字上では偉そうな倫理を垂れたり、利いた風な揶揄をする人たちが、現実では驚くほど姑息に振舞っている例を数知れず見てきました。いい加減そういうのは終わりにしたい。ぜひいらしてください。

100年前、世界の中心・ロンドンで精神を病むまで近代を味わい、高等遊民という名の「ロスジェネ」を主人公に小説を書き続けた夏目漱石漱石の死の数年前に渡仏、芸術の都・パリで喝采を浴びるという日本画壇の悲願を達成しながら、太平洋戦争中その力のすべてを「戦争画」に叩き込んだ藤田嗣治。彼らの絶望と希望を私たちは一度でも魂で受け止めたことがあるのか。漱石研究の第一人者・小森陽一氏、「戦争画RETURNS」で近代日本画を問うた美術家・会田誠氏を迎え、資本主義の暴力を怒りの沸点で味わった「ロスジェネ」が、今、グローバル下の文学と芸術という「近代100年の問い」を切り開く。現実の矮小化、下らぬマッピング、偽の問題、愚劣な揶揄が許される時間はもう終わりだ。(大澤信亮