大澤信亮

批評家・日本映画大学教授

夏目漱石のこと

下記のシンポに向けて漱石がいかに語られてきたのかを読み直しています。
8月10日 近代100年の問い(紀伊国屋サザンシアター)
漱石論の系譜はおおむね次のようにまとめることができます。
小宮豊隆(則天去私・弟子による神話化)→2江藤淳(他者・倫理)→3柄谷行人(分裂=倫理的位相と存在論的位相)→4小森陽一石原千秋(テクスト論・多様性)→5絓秀実・大杉重男(国民文学批判)
こうして見るとキリストと聖書の辿った歴史と完全に重なります。
死んだ後での神格化、それを「人間」に引きずり下ろした上での評価、神であり人であるという二重性への注目、文章自体への多様な読み込み、それ自体が作り上げる共同体への批判、とこんな感じです。
そして問題はやはり「3」の分裂にあると僕は考えます。これは「柄谷行人論」の補遺的な話になりますが、この批評文を書く過程で、氏の文章の雑誌初出版と単行本版を読み比べました。それで「マルクスその可能性の中心」は雑誌版の方がいいのではないかという議論をしたのですが、同様に、氏のデビュー作である漱石論「意識と自然」にも似た印象を持ったのでした。とくに結末部は、単行本版が、書かれなかった「明暗」の結部の残念に収斂するのに対し、雑誌版は、漱石存在論的位相を「金」を通した人間関係の絶対性と重ね、さらにそれを<自然>と重ね、石川啄木時代閉塞の現状」を引用しつつ、「私的欲望、私的権利を拡大させていく自然主義派や白樺派の近代志向の系列」を漱石と啄木の「両極」から批判するという終わり方になっています。
漱石の小説の人物たちが突発的な変貌を示すのは、一つは女をめぐってであり、いま一つは金をめぐってである。(…)実存主義の「実存」は全く家族や具体的な生活から切り離された存在であるが、特殊な情況においてのみそうあるにすぎないので、一般にこういう「実存」は必ずどこかで誰かの犠牲によって、たとえば金銭的に支えられているものである。漱石の小説が実存主義やその類の論理の網の目をくぐる、不透明で粘々とした何かを残しているのは、彼がそういう論理の裏目から出発するほかなかったからだ。(…)したがって「金」は、漱石の小説では、『ヴェニスの商人』がそうであったように、道徳的な負価値から人間の関係の抗いがたい絶対性を示すメタフィジカルなものに転化させられている」(柄谷行人「<意識>と<自然>」雑誌初出版)
僕が言いたいのは、「具体的な生活から切り離され」たところで、「必ずどこかで誰かの犠牲によって、たとえば金銭的に支えられている」自分を問わない言説は(たとえば自分自身の現実を一切問わず、ブログその他で高見の見物をしたり、相手の議論を切り詰めたり、下らない揶揄を繰り返す人たちは)、どんなに知的・論理的・データ主義的に自己を装おうと「実存主義」、いや、それ以前なのだということです。正直そういう人たちはもうどうでもいい。今の時代に文学を志すことの意味を真剣に考えている、若く新しい人に来てほしいと思っています。