大澤信亮

批評家・日本映画大学准教授

神的批評

僕の初めての単行本『神的批評』が刊行されます。
大澤信亮『神的批評』(新潮社)

最初にお金を貰って原稿を書かせて頂いたのが9年前。それから本当に色々ありました。単行本の刊行が物書きの正式なデビューだとすれば、ずいぶん遅かったという感じがするかもしれません。しかし、僕自身が本を出したいという気持ちがなく(それよりも真に手応えのある問いをつかむ方が大切だ)、また、無数の本で溢れている現状であえて単著を世に問うからには、決定的なものでなければならないと考えていました。

そして、現実にそのような本になりました。

あらゆる意味で完全に満足しています。内容はいずれもすでに発表されたものですが(「宮澤賢治の暴力」「柄谷行人論」「私小説的労働と協働──柳田國男と神の言語」「批評と殺生──北大路魯山人」の四編)、どの論文も手を加えています。とくに柳田論は全面的に書き改めました。ほとんど書き下ろしで、「思想地図」掲載版とはまったく違います。僕が信条としているのは、小説よりも娯楽よりも面白い「超批評」なのですが、4本すべてがそうなったと自負しています。ぜひ読んで頂きたい。

ブックデザインも「シンプルこそが最強」という僕の信念を見事に実現してくれたものになりました。隅々までデザイナーの相当な拘りがあり、これ自体が一つの「作品」になっていると思います。それから帯。この本を真っ直ぐに受け止めてくれた町田康氏。それから「対峙セヨ。」の名フレーズと、過剰なまでの熱い煽りを書いてくれた、若い担当編集者氏。彼と出会えたことが、この本にとって決定的だった。彼が、出版部に異動して初めて自分で立てた企画が、この本でした。企画を通すために、企画会議の日は徹夜で準備をして臨み、10回以上もゲラを通読してくれた。ファミレスで5時間も、打ち合わせだか何だかよくわからない、小林秀雄江藤淳三島由紀夫についての文学論を終電まで交わしながら僕は、自分の原点が、高校時代や大学時代、こんな風に真剣に対峙してくれる人たちにあったのだという記憶を懐かしく、心強く思い出していました。本当にありがとう。

思いの丈は「あとがき」に書いたのですが、そこに書かなかったことをこの場で少しだけ。僕は近年の「批評ゲーム」に心の底からうんざりしていました。しかし若い人たちが気の毒なまでに売名に必至になるのもわからないではない。なぜなら、新人が文芸批評の本を出すことは、現状では不可能と言われていたからです。その意味で僕は、新潮新人賞評論部門の最後の受賞者としての責任を感じていました。新潮社という文芸の中心で賞を頂いた自分が、もしそこから本を出せなければ、今後、若手の文芸批評は刊行できないという先例を作ってしまうかもしれないと(たとえば新潮社が新人の批評の本を出すのは東浩紀氏の『存在論的、郵便的』から12年ぶりのはずです)。もちろんこれは様々な幸運の重なったレアケースなのかもしれない。しかし、それがあり得るのだということ、そのために9年という長い時間がかかったことの重みを、未来の批評家・思想家・文学者に捧げたい。そして「やっぱり売れなかったじゃないか」という先例を作らないためにも、営業ではない「売る」努力をしようと思います(大手から本を出さなくても云々という見当違いは言いません。僕はもっとも困難な場所と状況で、つまり「アウェー」で戦いたいだけです)。

僕は社会批評もサブカルチャー批評もやりました。しかし最終的に行き着いたのは文芸批評だった。ジャンルに優劣をつけるつもりはないですが、僕にとっては、文学こそがもっとも刺激的で、現実的だった。そこにはマンガにもゲームにもネットにも満たされない何かがあると感じます。とはいえいわゆる「文学好き」ではありません。むしろそういう人に対しては「他に面白いことがあるのに」とさえ思います。しかし、そんな自分が心から本気になれるのが、文学だった。だから僕は、『バガボンド』や『ジョジョの奇妙な冒険』や『HUNTER×HUNTER』や「ニコニコ動画」や「2ちゃんねる」よりも面白い批評を、本気で目指しています。マンガやゲームやネットを論じているわけではない。すでに一定のマーケットがあり、それについて論じれば数が稼げるという話ではない。しかし、それらが提示する物語や倫理やリアリティを超える言葉を実現することが、それらに対する真の意味での批評になると考えているのです。これだけが動機ではないですが、とくに(たぶん僕と似たような娯楽環境にある)ネットを通してアクセスしてくれた方には、そのことを強調しておきたいと思います。