大澤信亮

批評家・日本映画大学教授

今月の仕事(追記あり)

今月は「新潮」に「山城むつみのミッション」(26枚)を掲載します。これについては多くを語りません。とにかく読んでほしい。これもまた論争文ですが、先月の「復活の批評」や「いかに神の力を発動させるか」とは性質が異なります。ただし、どれに優位があるわけでもありません。いずれも自分として真剣に対峙した結果です。

先月は「復活の批評」がネット上で騒動になりました。肯定否定に関わらず言及してくれた方々に感謝します。とくに東浩紀氏がスルーしなかったことには感謝しています。氏の反論の仕方や内容にはまったく納得できませんが、攻撃性が攻撃性を触発することはわかっています(そもそもこの論争文自体が氏の僕(ら)の活動の矮小化へのリアクションなのだから)。それをレッテルやアングルや数の力で片づけるのか、あるいは「個」として作品で切り返すのかに思想上の真の闘争があるわけです。でもこれ以上は僕が言うべきことではない。氏がもともと前者のタイプの人間だったのか、攻撃に曝され続けた挙句にそうなってしまったのか、あるいは「あえて」そのように振る舞っているのかわかりませんが、とにかく流されて終わりにならずに本当によかった。ただ、この論文の問題圏がしっかり論じられた感じはしないので、読者の方には、少し落ち着いた今から論点をじっくり考えてみて欲しいと思います。妙な対立を作られましたが、偏見なく読んでくれた人はわかるように、僕の議論は東氏の可能性の中心を引き継ぐものでもあるのです(追記。この表現について東さんから真摯なリプライを頂きました。僕も「文芸誌と思想論壇のなかでのみ仕事をして」きたわけではありません。そして現状に満足しているわけでもない。ただ、東さん自身が体現されているように、この壁を超えるためには時間がかかる。何年、何十年単位の。もう今回の件でうんざりされたかもしれませんが、できれば今後も僕の仕事を見て頂けるとありがたいです。僕も東さんの仕事を読み続け、学ぶべきところはちゃんと学んでいきたいと思います。ありがとうございました)。

あとロクに本文を読みもしないで東氏のアングルにまんまと乗せられて僕を攻撃した人たちにも言っておきます。そういう自分を恥ずかしいと感じませんか。そんな風に一生ずっとやっていくつもりですか。僕がマンガという表現をどれだけ大切にしているかは、このブログにも『神的批評』のあとがきにも、あるいは「ロスジェネ」4号でも語っている通りです。そもそも「貧しさ」は、宇野常寛氏の主張と分析の方法と選択肢の幅を指しているわけで、サブカルチャーが表現として貧しいなどと言っていない(ただし富裕有閑層向けの高額な娯楽でないのは事実だと思いますが)。さらに言えば貧しいという言葉を僕は否定的に使っていません。これも「ロスジェネ」4号の前書きで書きましたが、同じような状況で生きているということです。でもこんな解釈談義はどうでもいい。枝葉末節をつっついて本題をなし崩しにする汚いやり口はよくわかっています。僕はべつにあなたたちを憎んでいない。ただ、誰かに釣られて振るってしまった暴力をなかったことにせず、内省してほしいと思うだけです。叩けそうなものを叩いてすっきりする敗北の人生や、子分として忠誠を示し続ける惨めな生き方を克服し、個として生きてほしいだけです。

その上でなお異論反論があるなら正々堂々とやって欲しい。卑怯なレッテルやアングルや矮小化や追従では、たとえ何人でかかってこようと僕には通用しません。

それから先月は「週刊金曜日」で中島岳志氏と対談をしました。テーマは秋葉原連続殺傷事件と批評。対談は上の騒動の最中に行われ、膨大な公判記録を読みながら、被告がネット上の悪意のなかで凶行に及んだ気持ちを考えていました。今月中に掲載予定です。

あとは3月13日に下記のイベントに出席します。演出は「ク・ナウカ」の宮城聰氏、トークの相手は宮城氏と、社会学者の吉見俊哉氏です。

SPAC「グリム童話〜少女と悪魔と風車小屋」(オリヴィエ・ピィ作、宮城聰演出)

それと『神的批評』の3刷が間もなく市場に出ます。品薄でご迷惑かけています。