大澤信亮

批評家・日本映画大学教授

新世紀神曲

今月31日に2年半ぶりの第二著『新世紀神曲』が刊行されます。

『新世紀神曲』

収録は、「復活の批評」(「文學界」2011年3月号)、「出日本記」(「群像」2012年5月号)、「新世紀神曲」(「新潮」2012年12月号)の3本。結果的に、順に、現代批評論、現代社会論、現代小説論となっています。

いずれも論と呼ぶには相当型破りですが、奇を衒ったつもりはありません。言葉は自分自身の在り方を問うように使うときこそ最大の力を発揮する。それ以外の言葉は本当は生きることと関係がない。だから。論争をするなら、数や追従やレッテルではなく、自分の言葉でやるべきだ。社会の混乱について語るなら、自分の混乱を見つめるべきだ。小説について書くなら、その試み自身が小説的であるべきだ。これが批評である。この原則は前著『神的批評』と変わりません。

しかし、この原則は変わらぬまま、重大な態度の変更がありました。これについてはここで説明するよりも、実際に本を読んで欲しいと思います。

刊行にあたって付記すべきことは「あとがき」に書きました。一つだけ「復活の批評」発表時を思い出して加えれば、原文を読まずにネット上の印象操作につられて欲しくないということです。この文章は「大澤はマンガやアニメを差別している」みたいな訳のわからないレッテルを貼られ(僕がそれらからどんなに影響を受け、それらを大切にしているかは、『神的批評』でも、それまでの活動でも明言・体現してきたことなのに)、議論の内実は問われずただ「炎上」し、その一ト月後に起こった東日本大震災で有耶無耶になってしまいました(その意味でもっとも書籍化を望んでいた作品です)。そういう光景は相変わらず、そこかしこにあるようです。僕自身も無縁とは言い切れないから、批判するなら、せめて対象となる原文を自分で読んでからにしようと決めています。なので、はじめて読む人も、かつて僕を叩いた人も、そのように読んでくれるよう頼みます。たとえ、それが話題になるということだとわかっていても、著者としては、現物を読んでもらえるようお願いするしかないのです。もちろん、このような経緯を知らない人にはまったく余計な話で、本当は、ただ読んで欲しいと思っています。

真の意味で文学・批評・思想の炎が燃え上がることを願っています。

付言

このタイミングで僕の勤務先である日本映画大学の「誓約書」問題が炎上しています。一言だけ言っておけば、僕は自らの信念に照らして、友人・関係者の皆様の信頼を裏切るようなことは決して行っていません。報道には事実と異なる部分があります。いずれ真実が公的に明らかになると思います。御安心ください。