大澤信亮

批評家・日本映画大学教授

映画『大地を受け継ぐ』

井上淳一監督の映画『大地を受け継ぐ』が劇場公開された。

数年前、東日本大震災について「出日本記」(『新世紀神曲』所収)を書いたとき、私が考えていたのは「自殺した農家の男性」のことだけだった。

地震原発についてなら書くことも語ることもできる。しかし、震災にさいしてもっとも衝撃を受けたこの出来事については、書けない。「もう作物を作ることができなくなった」という理由で自ら死を選んだ人がいる。ここから始めなければ意味がないのに、それを語ろうとすると、自分が生きてしまっていることへの自問が生じる。それで、何も書けないまま、一年くらい、毎週のように自堕落に温泉に通ったり、否応なく与えられる勤め先の仕事をしたりしていた。

この映画の主人公の樽川和也氏は、自殺した男性の長男である。

樽川氏は放射性物質に汚染された父の農地を「受け継」いだ。それは「有害な食べものを他の人に食べさせている」(現実には厳しい測定のため放射性物質が含まれているものは出荷できないのだが)という「罪」の意識を受け継ぐことに他ならなかった。父は弱かった。何も死ぬことはなかったのに。だが、そんな弱く優しく誠実な心が、最高の食物を作り出していたのだ。氏は東京電力や政府の対応を厳しく批判する。それは絶対に必要なことだ。しかし、父が死を選ぶほど拒絶したことを、自分はやっている。そうやって生き延びてしまっている。おそらく、樽川氏を真に苦しめているのはこの矛盾であり、それは賠償では決して解消されない。にもかかわらず、氏の言葉や表情の重みを深めているのが、この矛盾と罪の苦痛であることもまた疑えない。現場を捨てて逃げた人間、正確には、何も「捨てる」ことなくたんに移動できたため、事件の前後で矛盾も葛藤も生じない人間には、思い及ばない世界だろう。

人生を省みて、あのとき死んでいればよかったと思う瞬間があって、その思いは時を経て強まるばかりなのだが、それでもこうして生きている。かつては閃きで書いていたが、今は、与えられた環境と、時折耳目に入る励ましに感謝しつつ、自分でも毒か薬かもわからないまま、毎月、祈るように書いている。

そんな自分の現在を樽川氏に勝手に重ねて観た。きっと同じように無数の人が自分を重ねて観るだろう。

東日本大震災についての映画は、震災後、おびただしい数が作られた。大小合わせれば数千本と聞いた。この映画は、映像としての派手さはないし、震災についての知識を得るという意味では、より相応しいものが他にあるかもしれない。だが、私の問いを正面から受け止めてくれる映画は、これしかない。

樽川氏が悲惨な出来事について語るときの歪んだ笑顔が忘れられない。首を吊った父を発見したときのことを、氏は、震える声で感情を押し殺すように笑顔で話す。涙を引き継ぐのは子供たちである。一人の男子学生の目から涙がこぼれる。女子学生はうつむき鼻をすする。こうした場面がこの映画には無数にある。これらは映像以外のどんな表現でも描くことができない。必要なのは知識や情報ではない。感情の伝達なのだ。

ではその逆はどうだったか。樽川氏が子供たちの感情に伝染され、氏の生に別の光が差し込む瞬間は記録されていたか。上映中に再度確認したい。