大澤信亮

批評家・日本映画大学教授

今月の仕事

「新潮」8月号の「小林秀雄」第13回は、「Xへの手紙」について書きました。

 以下の文章は、「文學界」8月号に掲載される予定だった、杉田俊介氏『宮崎駿論 神々と子どもたちの物語』の書評です。担当とのやりとりは順調に進んでいたのですが、ゲラの再校の時点で、編集長から「通常の書評に近い形へと変えてほしい」という要求があり、それを僕が受け入れなかったため、先方からすれば「掲載拒否」、僕からすれば「掲載取り下げ」という結論に至りました。

 私信

 すでに私は、この本の書評を六月八日付の産経新聞に書いており、それは今のところネットで無料で読める。紹介的な概要についてはそちらを読んで頂きたい。いきなり私事で恐縮だが、この一年、なるべく書評を受けるよう努めてきた。そういうことも含めて文学の現場に関わろうとしてきた。だが今回を最後に辞めることにする。だから同じことを繰り返したくない。一言だけ言えば、これを読まずに何を読むのか、そういう本である。
 読んでいて何回も涙が出た。「すばる」(六月号)の「長渕剛試論」や、「支援」四号の「弱さという生業」の草稿を読ませてもらったときも。もう『無能力批評』から六年か。その間、「書くことからの引退も考えている」なんて言葉も聞いていたから、この数カ月の間に杉田さんの文章が矢継ぎ早に発表されたことは、とても嬉しい。それらは一つの核を共有しているように思えた。人が自分の弱さに向き合うということ。でもこれは途轍もなく難しい。誰だってダメな自分を見たくないものね。だから、たとえば、強さや、情報や、娯楽や、仕事や、恋人や仲間や子供や、言葉に逃げようとする。それは時として、素晴らしい成果をもたらすけれども、本当にすごいものって、そういうものじゃないんだよね。
 生きていることのどうしようもなさ。それ自体を生存の原理として見出すこと。そんなことがもしできたら、きっと、生きるということの意味が、コペルニクス的に回転するだろう。たとえば地球の歴史はしばしば弱肉強食としてイメージされる。でも、よくよく考えれば、個体としては強者どころか、むしろ未熟な状態で生まれて来る人類が、地上に生きることを許されたのは不思議だ。それは知性が強かったからだ、と考える人もいるかもしれないけど、では人間社会が弱肉強食かというと、そうでもない。むしろ、人類の歴史を見れば、一時的な社会的強者が、普遍的な社会的弱者に浸食される、しかもそれによって結果的に、強者的存在の生活それ自体も豊かになる、そんな風になっている。貴族と平民もそうだし、健常者と障碍者もそうだ。あるいは個体としては、時代に限定された強者が、快適に生を送るかもしれない。でも、人類史的に意味があるのは、弱者の方なんだ。
 この不思議な動力を杉田さんはつかもうとしている。それこそが生きることに苦しむすべての存在にとって本当の光になると。それが社会を根本から革命する原理になると。この希望はこの『宮崎駿論』にも通じている。
 宮崎駿の「自己嫌悪」に、杉田さんは自分を重ねている。自分は醜く下らない存在である。そんな自分への絶望が、少女、女性、子供への期待を生む。これが宮崎さんの精神構造ですね。これを救えなければ書く意味がない。映像分析や作品のトリビアみたいなのは根本的にどうでもいい。そういう姿勢で杉田さんは書いている。この愚直さがいいと思いました。そもそも僕は、宮崎作品がそんなに好きじゃないから、こういう「問い」が提示されなければ、何も考えなかったと思う。他にも、育児やヘルパーを通して熟成されたと思われる感覚や認識がたくさんあって、それは杉田さんらしくて、胸がつまりました。
 気になったのは論の進め方です。宮崎作品の良いところと悪いところを峻別し、前者を徹底せよと繰り返す論調が、杉田さん自身の主張を裏切っていないだろうかって。もちろん、これは粗雑な言い方で、杉田さんは良い悪いを区別しているのではなく、自己に閉じようとする宮崎さんを、執拗に開こうしている。ソーニャやアリョーシャがキリストに倣ってそれを行ったとすれば、杉田さんは自然の動力に即してそれをやろうとする。でも杉田さんと彼らは何かが違う。なぜだろう。
 杉田さんは本当に宮崎駿の苦しみに寄り添えているんだろうか。人間が骨の髄から腐っているということ。持ってはいけない欲望を持たされ、それを実現させないために耐え続けることで自己嫌悪を日々醸成し、そこに永久に救いはないということ。そういう苦痛が杉田さん自身にあるんだろうか。あるとは思う。でも、僕の感じでは、それを本当に痛感している人は、他人に対して「欲望を肯定せよ」とは決して言わない。むしろ禁止の言葉を言う。それに対して、杉田さんはどこか、安全な場所から言っている気がするんだ。
 杉田さんと今までもめてきた相手たちは、こう思っていたんじゃないか。なんであなたの期待に応えなきゃいけないの。その前におまえが生きろよって。大の大人ならともかく、倫生君が「お父さんは本当は僕に何かが足りないと思っているんだ」と感じてしまうとつらいんじゃないかと、少し心配です。
 杉田さん自身がそれに気づいているからこそ、「弱者暴力」(弱いものを愛する心がそれゆえに振るう暴力)が、繰り返し警戒されるんだろう。それが杉田さんの弱さなのでしょう。杉田さんは、倫生君が入院したときの自分の取り乱した弱さを語るけど、それはとくに固有の弱さとは思えない。それよりも、子供に対する過剰な思い入れに、不吉な予兆を感じる。自分が空っぽだからこそ、自分の外に愛するものを求め、それを思い通りにしたいという欲望。それが批評なのか。わが子が生まれたという決定的な出来事から放射される光。僕には眩しい、眩し過ぎる光。その光さえも杉田さんを変えることができなかったのか。違うと思う。僕は杉田さんの語りの微細な変化に福音を感じる。変えられないという絶望を味わったとき、より宮崎さんに近づけるのだとしても、あの杉田さんの喜びはきっと、もっと先の何かに届いている。だから杉田さんは宮崎さんと戦おうとしたのでしょう。寄り添うことを超えて。それでいい。自分の子供が誰かを殺してしまうかもとか、自分を殺しに来るとか、余計なことを怖がらず、あの喜びで全身を満たしながら、新しい書き方を見つけていけばいいんだ。きっとできる。
 紙数が尽きました。もともと連絡が途絶えがちだったけど、この半年近くは電話もメールもしてませんね。でもこれでいいと思う。