大澤信亮

批評家・日本映画大学教授

近況

先日、一緒に暮らしていた猫が急死した。十一歳だった。朝は元気だったのに、帰ってきたら目を見開いたまま固くなっていた。体はまだ少し温かった。

最後の二年半は糖尿病になっていて、そのほとんどをずっとふたり(一人と一匹)で過ごしていた。一時は歩行困難なまでに悪化し、血糖値がかなり上がり、目を覚ましたら死んでいるのではないかという不安な日々が何ヶ月も続いた。かかりつけの病院に何度も通い、その先生に紹介してもらった動物の糖尿病の専門医の先生のところにも通った。体質に合うインスリン薬、その量の調整などが決まるまで、半年ほどかかったと思う。大好きだった食事も、かわいそうだがロイヤルカナンの糖コントロールに変えた。

毎日の朝と夜の注射。トレシーバのペンフィルに、ロードーズの注射針をさして、ピストンを引いて薬を吸い、首の後ろを指先でつまみあげ、針をさす。アルファトラック2という、猫用の血糖値を測定する機械があって、耳の血管に針をさし、血を出させて、素早く装着したテスター用紙で血糖値を測る。血糖値というものは、下がると反動で逆に上がるので、高血糖だからといって多く投与すると、一気に下がったあと、逆に跳ね上がってしまう。その値を調べるため、四時間に一度くらい同じことを、どれだけ続けたか。こちらが眠ってしまうとまずいので、目覚ましをかけるが、心配で眠れない。一度、血糖値を下げすぎてしまって、体が痙攣して呼吸が荒くなり、舌がダラっと出たことがあった。急いで砂糖水をスポイトで口に注入し、先生に急診の電話をかけて、ひたすら祈っていたら回復した。階段を登れなくなり、高さ数センチのトイレに跨いで出入りすることさえ困難になった時期もあったから、ある日、かかとを上げて歩いているのを目にしたときは、嬉しくて涙が出た。その後は順調に回復していった。

この一年半ほどはずいぶん体調が安定していて、毎月の病院での血液検査の数値も良かった。昔みたいに高く跳んだり速く走ったりはもうできなくなってしまったけれど、ベッドに飛び乗るくらいはできて、腕枕をしてきたり、股の間に入ってきたりして、いつも一緒に寝ていた。こんなふうに寿命まで生きていくのだろうと安心していた。人間以外の動物と暮らしたのは初めてだった。自ら望んで始まった猫との生活ではなかったが、こうなってみると色々な光景が思い出され、私のほうが心臓がおかしな鳴り方をしたり、息ができないほど呼吸が乱れたりして、生きた心地がしない。

部屋を閉め切って、遺体がいたまないように室内の温度を最低まで下げ、冬用のコートを着込んで朝までずっと撫でていた。撫でながら仕事をした。いつもはキーボードを叩いていると、腕に乗っかってきたり、体を寄せてきたり、鳴き続けて邪魔をしたあと、諦めて横で寝ていた。それでも仕事はしなければいけなかった。そんな風にやってきた自分を、最期に見せなければならないと思った。冷たく固くなった体は怖くもあったが、体毛を見ていると眼の錯視だろうか、どうも腹が動いているようにも見えて、温めれば生き返る気もした。発見した場所が私の枕元だったこともつらい。不調を感じて私に助けを求めてきたのだろうか。猫の最期は悲惨な状態が多いと聞いていたから、それまで体調不良もなく、失禁も吐瀉もほとんどなかったのは、死に方としては楽だったのかもしれないとも思うが、気休めではある。

すでに火葬して骨壷に収まっているが、眠ると夢に出てきたりするし、股の間に乗られた感じがして、目を覚ましてもいない。部屋には抜け毛が、小さな綿飴のようにちらばっていて、見つけるたびに丸めて遺影の前に供えている。生きていたときの習慣が体から抜けず、通れるようにドアを開けてあげたり、いつも隠れていたソファーの後ろを無意識に見てしまう。部屋に転がったトイレの砂でさえ、生きて動いていたときの名残のような気がして、掃除するのに覚悟がいる。注射の時間が気になり、もう必要ないんだと気づいて、必要がないという言葉の残酷さを感じる。

こういうことがあっても、生きていかねばならないし、生きていけてしまえる。そのことが本当につらい。肉体が消えるという同じ経験を、いずれ自分もするのだろうと思うことが、わずかな慰めになっている。肉体が消えたあと、「虹の橋の袂」で再会できるという温かい物語を、私はどうしても信じることができないのだが、肉体とともに意識も魂も消滅するという常識に、どうも心からは納得できない。人間の言葉と思考でそこに迫れるものか、そもそも迫る必要があるのかもわからないのだが、引き続き考えていきたい。

 

今月発売の「すばる」10月号に、「すばるクリティーク賞」の最終回(現時点)で佳作だった、荒川求実「主体の鍛錬──小林正樹論」が掲載されています。選評は同誌2022年2月号で語っているので繰り返しませんが、とにかく掲載まで諦めず書き直し続けたのは見事です(伴走してくれた編集者も)。トリッキーなメディア分析でもなく、高踏な表象分析でもない氏の映画評は、「現代的」ではないかもしれません。しかし、他者の批評を真っ向から受け入れることのできる氏の資質、対象を手際よく分析するのではなく、対象から自らを問われるところから書く氏の資質は、僕の考える批評の本流を継承しています。初心を忘れず頑張ってください。掲載おめでとうございます。とても嬉しい。