大澤信亮

批評家・日本映画大学教授

朗報三つ

この短期間に僕にとって喜ばしい本が3冊刊行されます。

まず「ロスジェネ」の浅尾大輔さんの初単著『ブルーシート』。これは本当に嬉しい。浅尾さんは自分の言論や活動が社会的な関心とクロスする日が来るとは思っていなかったのです。それでも、目の前にいる雇用や労働に苦しむ人に向き合い続けた。向き合えば向き合うほど、小説を書けなくなっていった。現実があまりにすごすぎると。そうやって酷使したせいで、浅尾さんの肺はもう半分しか機能していない。そういう人が、自らの本を世に問う気になったことは、それを促した世界の深刻さはあっても、やはり喜ばしいことです。それからこの機会に、実存系だの何だのと下らぬレッテルを張ってきた、にわか学者たちに言っておく。あなたたちの商売がこういう人たちの活動の上に許されていることを深く自覚し、全身全霊をかけて「具体的な政策提言」とやらを実行しなさい。あなたたちの単純すぎる議論には何も期待していないが、せめて、他者を好き勝手に罵倒してきたけじめを自分の体で取りなさい。今なら政治情勢的に不可能ではないはずだ。

次に、山城むつみさんの『文学のプログラム』が講談社文芸文庫に収録されます。明日(1日)の産経新聞朝刊にこの本の書評を書きました。自分にとって大切な本というテーマだったので、このタイミングの不思議を感じながら、迷わず選びました。僕は文章を書く上で無数の人たちに恩恵と影響を受けていますが、批評という意味では、山城さんの影響がもっとも大きいと思います。たぶんこの本を読まなければ、批評を書こうと思わなかった。かつても今も、小説こそが文章表現の極限形式であるという確信は揺らぎませんが、現代において、山城さんの批評を凌駕する小説があるだろうか、とも思います。つまり評論として読んでいない。実際、読感も、いわゆる評論文とは違います。そのように突き刺さった彼の思考は、爾来十余年、薄れるどころかますます強まっています。講談社文芸文庫は日本文学の本流というイメージがあり、そこに山城さんの本が収まるのは本当に嬉しい。

最後に、すでに先日刊行された、生田武志さんの『貧困を考えよう』。この本は1999年の池袋通り魔事件の犯人造田博と、麒麟の田村裕という二人の「ひろし」が、ともにほぼ同時期に親に放置されながらも、前者は犯罪者として死刑に、後者は芸人として成功したという悲しい対照から議論を進めていきます。とくに造田博の死刑が確定した年が『ホームレス中学生』の大ヒットと重なる対照が痛切でした。僕自身、池袋通り魔事件についてはずっと考えていました。それは生田さんのような向き合い方とは違うのですが、この本には、生田さんの活動のエッセンスが込められていると思います。子どもの貧困を考える上でも必読です。

こうして並べたとき、メディアのメインストリームから離れたところで、地道に実践や思考を重ねてきた人の仕事の貴重さを思います。メディアを賑わせている議論のすべてが、何か根本的な問題を見ないための逃避のように思える。もちろん自分自身がとくに昨年はその渦中にいた。ただ、僕は「フリーターズフリー」にしても「ロスジェネ」にしても、資本制を変えるという前提でやっているので、現在のような格差論に落とし込まれた「若者論」には、はっきり言って何の興味も持てない。もともと弱者救済のつもりもなかったし、それは最初から明記している。考えたいから考えているだけです。読まずに好き勝手言う人も後を絶たないけど、そういう場末の終わってる人もどうでもいい。いかに自分自身の長い仕事をやり抜けるかだけが大切です。この三冊の本は、そのような仕事が社会に存在し得ると示した事実性において、決定的な意義がある。無理に場を盛り上げたり、空気を読んだりしなくても、自分のモチーフを貫くことが社会につながるというビジョンこそが本当の希望ではないか。一瞬で消費されるネタの提供者になるのではなく(ただしそのような生き方を本気で試みる人を馬鹿にしません)、やはり、数十年単位で読者に考え続けてもらえるような仕事をしたい、と心から思わされました。