大澤信亮

批評家・日本映画大学教授

思想地図と悍

 今回の「思想地図」4号はすごい。というか東浩紀がすごい。閉じられていきそうになる議論を開く力というのか。これは「批評空間」の読者だった人間にはひどく懐かしい感覚だった。それを古いとは思わない。むしろ周囲の「若者」を圧倒する新しさがある。正直、僕には「朝生」等で展開されたアーキテクチャを巡る議論よりも、東さんの思考形式こそが気になる。そっちの方が複雑でおもしろい。今でも東さんの「想像界と動物的通路――形式化のデリダ的諸問題」という論文を思いついては読み返す。そこで論じられている「動物」と、後の『動物化するポストモダン』の「動物」は、たぶん違う。前者の「動物」は、象徴界の弱体化から想像力(データベース)の拡充へという、それ自体が人間中心的な後者の動物概念からずれるものだったように思う(デリダ的「動物」とコジェーブ的「動物」の差異)。同じことは『存在論的、郵便的』の「郵便空間」にも言えて、あの本で示された「誤配」と、その後東さんが実践した「誤配」にもたぶんずれがある。ただ、中沢新一との鼎談でガタリに触れての「この方向で行くと頭がおかしくなるんじゃないかと思って、僕はあの手の探究はやめてしまったところがある」という言葉や、村上隆との鼎談で「僕が思想で行いたい本当に本当のところは日本で育たないのではないか」という言葉を読むと何も言えなくなる。自分がそういう読者足り得ていたかと考える。形式化の果てに詩的言語に行ったハイデガーを、デリダは動物の位相から脱構築するわけだが、そこには「頭がおかしくなる」ような何かがあるだろう。けれども人をそこに促す思想的・社会的・現実的条件もあるだろう。そういう変なものについて考えたいと思う。僕はロスジェネ派とか実存派とか言われていて、それは別にいいんだけど、そういう人間が、東さんのそういう部分にこだわっているということは書いておきたい。レッテルを貼って安心したがる者たちにではなく、むしろ「ロスジェネ」や「フリーターズフリー」の読者たちに向けて。

 それから「悍」について。この雑誌も初期の「新左翼オヤジ雑誌」的なイメージがずいぶん壊れてきた。元々そうだったのかもしれないけど(3号しか読んでないので)、太田直里の文章などは完全に異物。おもしろい。正確には、おもしろいことが起こり得る、そんな印象を持った。とくに小野俊彦に期待している。小野さんは『フリーター論争2.0』や「蟹光線祭」などで旧知の間柄だが、批判的であることと知性的であることが共存してて、話してて楽しい。文体は硬質というか、読みにくいけど、読みにくいことが閉じられていることではない。むしろ読みやすい文章こそ閉じられていることが多いから。小野さんの感覚は現実に開かれている。この感覚はたぶん十分には認知されていない。小野さん自身も展開し切れていないように思う。たとえば小野さんはブログでの太田さんとのやりとりで、政治と演劇との近親性について書いている。たしか、ギリシャのポリスでは、政治と共に演劇があり、それが国家を形成したはずだ。ならばこの演劇=表象=再現前化をどう脱構築できるのか。すべてが演劇だとしたら、意識的に演技する=内省とは演劇の批判であり、それは、観客と役者、理念と表出、素顔と仮面、内部と外部といった対立を包み込む小屋=国家への批判になるのか。僕たちの日常こそが演劇であり、それを「引き剥がす」ためにこそ「演劇」が必要になるという感覚は、「何か変なこと」。でもそれは、資本制との衝突を避けるとき、容易に小さな国家に転化するだろう。前に小野さんは「国家を形成しない言語」ということを言ってたけど、では「国家を形成しない演劇」とはどんなものか。デリダの「フロイトエクリチュールの舞台」なんかも参考になるかな。ただ、このような空間の再編と小空間化それ自体が、僕は資本によって強いられていると感じている。とにかく、おそろしく退屈な共同討議をやっている暇があるなら(佐々木中だけがまとも)、今後の「悍」は小野さんや佐々木さんを中心に展開していくべきだ。

 ようするに、問題は、閉じられていく思考をいかに開くか。東さんの開き方とも、小野さんの開き方とも違う、開き方。生き方。僕は内省を手放せない。自己に閉じる内省──正確には開かれているように見えて資本制的・否定神学的に閉じられている内省──それ自体を開き直す「内省」がある。それは東さんにも小野さんにも作動しているはず。都合のいい自己反省や自己否定で退けられない他者がいる。その位相から見ないと郵便空間も政治空間も、それ自体が閉じられたものになってしまう。でも、彼らを刺激し得る議論と現実を示せるかは、自分(と自分が関わっている空間)の問題。とにかく、メディア的なアングルがどうであっても、僕はいろいろな人が活躍している状況から何かを学び、楽しみたいと思っている。だから、もし「フリーターズフリー」や「ロスジェネ」の読者が、自分の圏外の論者を低いところで叩いたり食わず嫌っているとすれば、それは違うと言いたい。

追記:この文章は3週間ほど前に書きあげて寝かせていたのだが、「ロスジェネ」4号の告知文を書き、いちおう自分の姿勢を示したということもあって(「他人を論評をする前に自分のことをやる」が僕の原則)、載せることにしました。さらに自分のことで言えば、一年以上かけて書いてきた原稿が最終段階に入っている。これについてはまた後ほど書きます。

朗報三つ

この短期間に僕にとって喜ばしい本が3冊刊行されます。

まず「ロスジェネ」の浅尾大輔さんの初単著『ブルーシート』。これは本当に嬉しい。浅尾さんは自分の言論や活動が社会的な関心とクロスする日が来るとは思っていなかったのです。それでも、目の前にいる雇用や労働に苦しむ人に向き合い続けた。向き合えば向き合うほど、小説を書けなくなっていった。現実があまりにすごすぎると。そうやって酷使したせいで、浅尾さんの肺はもう半分しか機能していない。そういう人が、自らの本を世に問う気になったことは、それを促した世界の深刻さはあっても、やはり喜ばしいことです。それからこの機会に、実存系だの何だのと下らぬレッテルを張ってきた、にわか学者たちに言っておく。あなたたちの商売がこういう人たちの活動の上に許されていることを深く自覚し、全身全霊をかけて「具体的な政策提言」とやらを実行しなさい。あなたたちの単純すぎる議論には何も期待していないが、せめて、他者を好き勝手に罵倒してきたけじめを自分の体で取りなさい。今なら政治情勢的に不可能ではないはずだ。

次に、山城むつみさんの『文学のプログラム』が講談社文芸文庫に収録されます。明日(1日)の産経新聞朝刊にこの本の書評を書きました。自分にとって大切な本というテーマだったので、このタイミングの不思議を感じながら、迷わず選びました。僕は文章を書く上で無数の人たちに恩恵と影響を受けていますが、批評という意味では、山城さんの影響がもっとも大きいと思います。たぶんこの本を読まなければ、批評を書こうと思わなかった。かつても今も、小説こそが文章表現の極限形式であるという確信は揺らぎませんが、現代において、山城さんの批評を凌駕する小説があるだろうか、とも思います。つまり評論として読んでいない。実際、読感も、いわゆる評論文とは違います。そのように突き刺さった彼の思考は、爾来十余年、薄れるどころかますます強まっています。講談社文芸文庫は日本文学の本流というイメージがあり、そこに山城さんの本が収まるのは本当に嬉しい。

最後に、すでに先日刊行された、生田武志さんの『貧困を考えよう』。この本は1999年の池袋通り魔事件の犯人造田博と、麒麟の田村裕という二人の「ひろし」が、ともにほぼ同時期に親に放置されながらも、前者は犯罪者として死刑に、後者は芸人として成功したという悲しい対照から議論を進めていきます。とくに造田博の死刑が確定した年が『ホームレス中学生』の大ヒットと重なる対照が痛切でした。僕自身、池袋通り魔事件についてはずっと考えていました。それは生田さんのような向き合い方とは違うのですが、この本には、生田さんの活動のエッセンスが込められていると思います。子どもの貧困を考える上でも必読です。

こうして並べたとき、メディアのメインストリームから離れたところで、地道に実践や思考を重ねてきた人の仕事の貴重さを思います。メディアを賑わせている議論のすべてが、何か根本的な問題を見ないための逃避のように思える。もちろん自分自身がとくに昨年はその渦中にいた。ただ、僕は「フリーターズフリー」にしても「ロスジェネ」にしても、資本制を変えるという前提でやっているので、現在のような格差論に落とし込まれた「若者論」には、はっきり言って何の興味も持てない。もともと弱者救済のつもりもなかったし、それは最初から明記している。考えたいから考えているだけです。読まずに好き勝手言う人も後を絶たないけど、そういう場末の終わってる人もどうでもいい。いかに自分自身の長い仕事をやり抜けるかだけが大切です。この三冊の本は、そのような仕事が社会に存在し得ると示した事実性において、決定的な意義がある。無理に場を盛り上げたり、空気を読んだりしなくても、自分のモチーフを貫くことが社会につながるというビジョンこそが本当の希望ではないか。一瞬で消費されるネタの提供者になるのではなく(ただしそのような生き方を本気で試みる人を馬鹿にしません)、やはり、数十年単位で読者に考え続けてもらえるような仕事をしたい、と心から思わされました。

イベント告知

まず、先日の紀伊国屋イベントにご参加・ご協力頂いた方々に、心より感謝申し上げます。十分に議論を展開できなかった部分もありますが、あの場で話したことは引き続き考えていくつもりです。
その延長上になるのかどうかわかりませんが、来月、下記のトークイベントに出席します。
9月11日 ロスジェネ世代と考える90年代──オウムとは何だったのか 新宿ジュンク堂書店

出演者は『I LOVE 過激派』『カルト漂流記』の著書を持つ元過激派の早見慶子さん、オウム問題と真っ向から向き合ったアクチュアルな宗教学者島田裕巳さんです。僕は「神的」という言葉をしばしば批評で用いるのですが、それは人格神や特定宗教とは関係ない。むしろそれらを分解し、つなぎ直す力という意味を込めています。だから、それは「神」でも「自然」でもいいのですが、こういう話をするとすぐ「宗教か」という反応が来るので困る。僕はむしろ、真に宗教を批判し得る個人はどこにいるのか、実践はどこにあるのかを考えているのだから。

とにかく、神と信仰について本気で話すつもりですので、ぜひご参加ください。

夏目漱石のこと

下記のシンポに向けて漱石がいかに語られてきたのかを読み直しています。
8月10日 近代100年の問い(紀伊国屋サザンシアター)
漱石論の系譜はおおむね次のようにまとめることができます。
小宮豊隆(則天去私・弟子による神話化)→2江藤淳(他者・倫理)→3柄谷行人(分裂=倫理的位相と存在論的位相)→4小森陽一石原千秋(テクスト論・多様性)→5絓秀実・大杉重男(国民文学批判)
こうして見るとキリストと聖書の辿った歴史と完全に重なります。
死んだ後での神格化、それを「人間」に引きずり下ろした上での評価、神であり人であるという二重性への注目、文章自体への多様な読み込み、それ自体が作り上げる共同体への批判、とこんな感じです。
そして問題はやはり「3」の分裂にあると僕は考えます。これは「柄谷行人論」の補遺的な話になりますが、この批評文を書く過程で、氏の文章の雑誌初出版と単行本版を読み比べました。それで「マルクスその可能性の中心」は雑誌版の方がいいのではないかという議論をしたのですが、同様に、氏のデビュー作である漱石論「意識と自然」にも似た印象を持ったのでした。とくに結末部は、単行本版が、書かれなかった「明暗」の結部の残念に収斂するのに対し、雑誌版は、漱石存在論的位相を「金」を通した人間関係の絶対性と重ね、さらにそれを<自然>と重ね、石川啄木時代閉塞の現状」を引用しつつ、「私的欲望、私的権利を拡大させていく自然主義派や白樺派の近代志向の系列」を漱石と啄木の「両極」から批判するという終わり方になっています。
漱石の小説の人物たちが突発的な変貌を示すのは、一つは女をめぐってであり、いま一つは金をめぐってである。(…)実存主義の「実存」は全く家族や具体的な生活から切り離された存在であるが、特殊な情況においてのみそうあるにすぎないので、一般にこういう「実存」は必ずどこかで誰かの犠牲によって、たとえば金銭的に支えられているものである。漱石の小説が実存主義やその類の論理の網の目をくぐる、不透明で粘々とした何かを残しているのは、彼がそういう論理の裏目から出発するほかなかったからだ。(…)したがって「金」は、漱石の小説では、『ヴェニスの商人』がそうであったように、道徳的な負価値から人間の関係の抗いがたい絶対性を示すメタフィジカルなものに転化させられている」(柄谷行人「<意識>と<自然>」雑誌初出版)
僕が言いたいのは、「具体的な生活から切り離され」たところで、「必ずどこかで誰かの犠牲によって、たとえば金銭的に支えられている」自分を問わない言説は(たとえば自分自身の現実を一切問わず、ブログその他で高見の見物をしたり、相手の議論を切り詰めたり、下らない揶揄を繰り返す人たちは)、どんなに知的・論理的・データ主義的に自己を装おうと「実存主義」、いや、それ以前なのだということです。正直そういう人たちはもうどうでもいい。今の時代に文学を志すことの意味を真剣に考えている、若く新しい人に来てほしいと思っています。

イベント告知

下記のシンポジウムを開催します。昨年の紀伊国屋サザンシアターのイベントでは、東浩紀さん、赤木智弘さん、雨宮処凛さん、萱野稔人さん、杉田俊介さんという豪華メンバーをお招きしましたが、今回も、文学者の小森陽一さん、美術家の会田誠さんという、これまたあり得ない奇跡的なマッチングになりました。
8月10日 近代100年の問い(紀伊国屋サザンシアター)
僕は昔から、自分の現実を問わず次から次へと「ネタ」を消費する「知的遊戯」がどうにも退屈でした。手応えがない。何かを避けている気がする。それに、おもしろいものは他にいくらでもある。もし「考えること」がスリリングであり得るとしたら、それは自分の足元を揺さぶられる経験のなかにしかない。現在の活動も「資本制下において言葉を発するとはどういうことか」という内省=自己批評の延長上にあります。
たとえば、提示した瞬間に消費され、忘れられる「偽の問題」の過剰供給それ自体が資本制の病理であり、それは「考えること」を矮小化するだけでなく、今や自転車操業的ななし崩しのなかで出版市場そのものを逼迫させている。この負のスパイラルをいかに食い止めることができるのか。生産・流通・消費の構造変革は必要でしょう。でもそれ以前に消費されない・消費し得ない問いをつかまなけれならない。私たちが真に「今」を思考するためには、過去へと遡行し、そこに連続している問いを「切開」(「明暗」)することが必要なのではないか。
漱石と藤田を過去の偉人として見るのではなく、私たち同様、グローバリゼーションの荒波に翻弄された存在として見ること。それが近代文学と近代美術の出発点にあり、その上に私たちの文学と芸術があることの意味を考えること。僕は若者論や格差論をやっているつもりはありません。根本的なことを考えているだけです。活字上では偉そうな倫理を垂れたり、利いた風な揶揄をする人たちが、現実では驚くほど姑息に振舞っている例を数知れず見てきました。いい加減そういうのは終わりにしたい。ぜひいらしてください。

100年前、世界の中心・ロンドンで精神を病むまで近代を味わい、高等遊民という名の「ロスジェネ」を主人公に小説を書き続けた夏目漱石漱石の死の数年前に渡仏、芸術の都・パリで喝采を浴びるという日本画壇の悲願を達成しながら、太平洋戦争中その力のすべてを「戦争画」に叩き込んだ藤田嗣治。彼らの絶望と希望を私たちは一度でも魂で受け止めたことがあるのか。漱石研究の第一人者・小森陽一氏、「戦争画RETURNS」で近代日本画を問うた美術家・会田誠氏を迎え、資本主義の暴力を怒りの沸点で味わった「ロスジェネ」が、今、グローバル下の文学と芸術という「近代100年の問い」を切り開く。現実の矮小化、下らぬマッピング、偽の問題、愚劣な揶揄が許される時間はもう終わりだ。(大澤信亮

近況

いよいよ増山麗奈責任編集「エロスジェネ」(「ロスジェネ」3号)の発売です。現在、紀伊国屋書店新宿本店・南口店で先行販売中。全国の書店に並ぶのは7月中旬頃の予定です。推薦文は上野千鶴子氏。

さらに刊行記念イベントも連続で予定しています。まず第一弾は、

7月12日 資本主義に、愛はあるのか(紀伊国屋書店新宿本店)

出演者は、増山麗奈浅尾大輔、僕、そして3号にご寄稿頂いた藤田和恵さん。最初のイベントということで、今回の特集の編集委員自身による紹介、積み残された議論の深化などを予定しています。そして第二弾は、

7月15日 資本主義に、愛はあるのか(東京大学ジェンダー・コロキアム)

パネリストは、推薦文も寄せて頂いた上野千鶴子さん、そして今回、創作「買われる少年のための歌物語」を寄稿してくれた岩川大祐さん、増山さん、僕の4人です。他にもいくつかのイベントを企画中ですのでお楽しみに。

あと、城繁幸さんのオンライン対談本も発売されました。

城繁幸が若者へ贈る雇用と経済の対談

以前に放送されたネットラジオを活字にまとめたものです。僕が城さんと知り合ったきっかけや、宮澤賢治や文学について、あるいは高校時代や卒業後の頃の話などをざっくばらんにしています。

應典院イベント(大阪)

直前ですが下記のシンポジウムに参加します。

6月13日 働く意味・仕事の未来(應典院)

ユニオンエクスタシーの小川恭平さんと井上昌哉さんは、京都大学非正規雇用職員の首切り問題で、学内を占拠して抗議運動をしています。僕自身も大学の非常勤講師ということで、あまり問題にされない大学非常勤講師の現状など、当事者の視点から話そうと思います。他にもいくつか論点を用意しています。
それとロスジェネ3号校了しました。今回のテーマは編集責任の増山麗奈さんが長年自らのテーマとしてきた「エロス」です。エロスジェネ。このテーマと表紙に躓く人にこそ読んでほしい。ブームに乗った無数の企画本と、人生そのものをぶつけることの違いを、その目で確かめてほしい。刊行イベントの計画も進めています。
同じ意味で、発売中の「文藝別冊 太宰治」に掲載されている、浅尾大輔さんの論考「「踏み絵」としての太宰(ユダ)」も読んでほしい。宮本顕治が切り捨てた太宰の「やさしさ」に寄り添うことで、逆に、宮本顕治的なもの=戦後の日本共産党的なものを切り返す姿勢は、浅尾さんの生き方そのものをぶつけられる思いがしました(もっとも困難な場所で自らの「敵」との「連帯」を身を持って示すこと)。ではそういう浅尾さんに向き合うとはどういうことか。まず、最低条件として、書かれた内容について云々する以前に、僕自身が困難な場所でこそ言葉を口にする習慣を身に付けることでしょう。この水準で受け止めない限り、すべての言論行為は、自分自身を滅ぼす危険な言葉遊びになってしまう。なので今はこれ以上は書きません。それに相応しい場所で書きます。

文学フリマ&デモの感想

5月10日の文学フリマに「葬&ロスジェネ&フリーターズフリー」として参加します。それにしても字面がヤバいね。僕は(たぶん)ここだけでしか手に入らないレアアイテムを若干数販売する予定。

今回の自由と生存のメーデーで気になったこと。

1.出発して間もなくのところで警察と意味不明に揉めた(その後何事もなく続行。何だったのか)。
2.109前あたりで右翼が突っ込んできた(警察がガードしてくれた。どうもです)。
3.デモの先頭を社民党が位置取っていた(出しゃばり。主催の若者に花持たせろよ)。

久しぶりに会った友人たちと話しながら、そろそろ次の局面を考える必要が出てきたと思った。復刊された「朝日ジャーナル」は、我々の関わってきた活動の上澄みを掬う一方、自らの姿勢は何一つ問わない相変わらずの編集姿勢で、徹底的にダメだと思った。やるなら本気でやれよ。これは旧来の運動形態を何一つ自問せず、現在の運動に便乗してくる者たちにも言える(これは社民じゃないけど、べつに右翼の挑発に乗る必要なんかなかった。闘うのが好きなだけなら、自分の肉体一つで個人的にやり合えばいい。「超左翼」の浅尾大輔さんなら、そういう右翼といかに手をつなげるかを本気で考えるだろう)。それから「生存組合」ということで呉越同舟的にやってきた独立系組合も、労働法による闘争だけでなく、むしろ組合という原理自体を開き直す必要を強いられている気がする。正社員/良いフリーター/悪いフリーター/派遣/メンヘル/障害者/ニート/……といったグラデーションを貫く「生きること」の核は、たぶん、言論だけでないすべてを使った生身の「議論」によってしか諸個人のなかに覚醒しない。

報告

今年から恵泉女学園大学でも非常勤を3コマ持つことになりました。講義が開始する前に目処をつけねばならない原稿を抱えていますが、しかし花見の季節ですね。

友人でミニコミ誌「葬」の編集長のおもだか大学さんが、4月2日深夜のフジテレビ関東ローカル番組「東京マスメディア会議」に出演します。実際に葬儀の仕事をしていたおもだかさんの作る「フリースタイルなお別れ雑誌」は何から何までヤバくてかなりいい感じです。お葬式DIY。サブカル好きにおすすめ。

今月の予定です。

4月17日 初台現代音楽祭第4回 ロスジェネと芸術
僕はトークに参加します。僕が考える「ロスジェネアート」とは、貧困が描かれているかといった内容面よりもむしろ、従来型の商業芸術モデルが立ち行かなくなりつつある現状で、自生的な制作・流通・消費のオルタナティブを探る試みとしてあります。その辺を美術と映画の現場の話を伺いつつ考えてみる予定。たとえばアンディ・ウォーホルは、オリジナル至上主義だった従来の芸術から、オリジナルとコピーという区別のない、万人が消費・所有し得るものへとアートの意味を変えたわけですが、それは資本制の原理に明らかに対応しているわけで、むしろその限界を批判することが必要ではないか。というか、そういう状況はすでに生じており、それを言葉と作品にすることが必要ではないのか。つまりポップ・アートではなくデモ(demo[democracy/demonstration])・アートが。なお、「行きたいけどチケットの値段が……」という方がいたら、僕の方までメールください。

あと共同通信の書評欄に内山節『怯えの時代』の書評を寄せました。数日中に掲載の予定。

近況

現在発売中の「小説トリッパー」(特集「脱貧困の想像力」)に浅尾大輔さんの小説「ブルーシート」が掲載されています。言いたいことはあります。実際に少しは伝えました。いずれ徹底的に書くでしょう。でも何よりもまず、この息苦しさを感じることです。妙に清潔でこなれた誌面に滲んだ鈍色の異物として。

以下は最近書いた文章。

・「私の蟹光線祭」(「fuf通信」vol.7)
僕の文章自体は討議を終えての短いエッセイですが、同時に掲載されている小野俊彦さんの文章、田野新一さんの文章がすごくいい。他の読み物もいい。いつも届くのが楽しみな刊行物です。8ページ。1部100円。1000円程度のカンパ代を払って年間定期購読してみてはいかがでしょうか。

・「加害と被害の二重螺旋を超えて」(「部落解放」4月号)
特集は「五月病をこじらせろ!」。基調はフリーターズフリーの紹介ですが、「自分を絶対に変えようとしないメディアと読者」について問うています。同号にはフリーターズフリー生田武志さんも寄稿しています。

・「説得力の問題」(「en-taxi」vol.25)
サブタイトルは「宮本顕治以前の批評文への違和」。僕は、アングルだけで中身が空っぽな批評家モドキの文章にうんざりしており、それを「宮本顕治以前」という言葉で表しました。でも、自分の文章だってそこから抜け出ているとは思わない。ようするに、何かを根本的に試み直す必要を感じているのです。

近況

今発売中の「現代思想」(特集 ケアの未来──介護・労働・市場)に掲載されている、市野川容孝+杉田俊介+堀田義太郎「「ケアの社会化」の此/彼岸」がすごいことになっています。難解ですが、この難解さは、ケアの現場で「ケアする人/される人」という非対称性に向き合っている各氏が、そこにある語り難いものを語ろうとしていることに起因しているように思います。たとえばこの非対称性は固定的ではない。ケアをしていたつもりがケアされていた、社会的には「無能力」とされる人が良いヘルパーに成り得る、そういう生存の不思議から社会を見つめ直す。つまり狭義のケアの話ではない。私たちの内部に巣食うケア的なものとその処理方法が根底から問い直され、未曾有のビジョンが切り開かれようとしています。それにしてもこんな討議がよく成立し掲載されたものです。

直前ですが今週金曜日(6日)に阿佐ヶ谷ロフトでイベントを行います。
「大転換時代を生き抜く 女性と貧困」
どんな話になるかわかりませんが、ざっくばらんにやるつもりです。

謹賀新年+連絡

あけましておめでとうございます(僕は年賀状を書かないので、この場でご挨拶いたします)。昨年は例年に増して多くの方々にお世話になりました。メディアや雇用を含め、従来の社会の在り方が崩れていく過程で出会えた方々はいずれも真摯で逞しく、疾風に勁草を知るの思いの1年でした。今年もよろしくお願い申し上げます。

今月出席するイベントを報告します。

1月23日 北海道大学 国際政治経済政策事例研究

コーディネーターは『パール判事』の中島岳志さんです。部外者も連絡すれば参加できるようなので、北海道在住の方はぜひ。ただし、大学院の研究会ですので、学ぼうとする意志のあることが前提です。内容は、僕の文芸批評を元に、労働運動系のイベント等ではあまり話したことがないハードな議論をやる予定。ちなみに僕は小学校時代の数年間を北海道で過ごしたのですが、僕はその数年間で、世の中には様々な家庭のかたちがあることを知ったのでした。その意味でもこのようなかたちで北海道に来訪するのは感慨深いです。

1月27日 東京大学 ジェンダー・コロキアム

司会は『不登校は終わらない』の貴戸理恵さん。そしてパネリストはなんと上野千鶴子さんとFF(栗田さん、杉田さん、大澤)。こんなに早くお会いできるとは。自分がフェミニズムについて考えるとき、つねに上野さんの本が手元にありました。そこから学んだ感謝の気持ちも込めて、自分の考えていることを率直に話したいと思います。なお、これは偶然が重なった上で成立した貴重なイベントですので、関東在住の方は男性も女性も是非ご参加を。

今月のイベント

今月参加するイベントを報告します。

12月9日 帝国ナイト
主催の大橋可也さんは、土方巽暗黒舞踏の系譜に位置する、注目の振付家・舞踏家です。コンテンポラリーダンス界で労働問題に関心を寄せている、僕の知る限り唯一の人です。今月末には新国立劇場小劇場で新作「帝国、エアリアル」を発表します。その前哨戦としてダンス批評家の木村覚さん、浅尾大輔さんと話します。

12月17日 秋葉語録隊
秋葉語録隊の南謙一さんは「宙ブラリ」というバンドでボーカルをやりつつ、自らの詩魂を高めるべく様々な活動をやってる熱い人です。今回は増山麗奈さんと「ロスジェネ」3号の前哨戦として、「エロス」についてのぶっちゃけトークを行う予定です。要注目。日程が合えば「ロスジェネ」2号の全国初売りになるかも?
12月23日 フリーターユニオン福岡
『フリーター論争2.0』にも参加してもらった小野俊彦さんは、僕の知る限り、同世代の「活動家」のなかでもっとも戦闘能力が高い人です(暴れるとか、強引という意味ではなく、根性が据わっている)。クリスマス前の福岡で『蟹工船』や渋谷の逮捕をテーマに、小野さん、フリーター全般労組の田野新一さんと路上の意義を問う予定。

あと今月発売の「思想地図」に「私小説的労働と組合」という柳田國男論を書きました。大塚英志さんの柳田論のモチーフである「私批判」を、農政官僚時代の柳田の組合論から再把握し、私小説的な「私」だけではなく、近代的な「私的所有」(に要請される労働型式と言語使用)をも批判し得る形式としての「組合」を論じました。

フリーターズフリー2号

いよいよ「フリーターズフリー」2号の刊行が迫ってきました。

http://www.freetersfree.org/

今回は栗田隆子さん責任編集の「女性労働」特集です。といってもそこはFF。ありきたりな「女性の権利」ではありません。女性(運動)自身が「なかったこと」にしてきた現実、たとえば「結婚もしていないしキャリアウーマンでもない。何でもない女の人が生きて行く」(栗田)こと、あるいはコレクティブやパート運動などの今は参照されない女性運動、既存のフェミニズムに対する女性からの違和感、そして女性自身の暴力性など。それらをウーマン・リブフェミニズムを熟読し、影響を受けてきた栗田さん自身が、様々な人たちとの出会いのなかで問い・問われていく。僕はその満身創痍の過程こそがリブ・フェミニズムの正統な継承なのだと感じています。
そのような栗田さんの奮闘に向き合うために、僕もまた、男性が女性の問題を考えるとはどういうことか、ギリギリまで考えました。それは単なる「反省」ではまったくありません。僕はこの2号を女性はもちろん、男性にこそ読んで欲しい。女性のことを「考えてあげる」ためではない。むしろ、女性の勇気に向き合い、苦痛に向き合い、暴力に向き合い、何より自分自身に向き合い、そこから社会を本当に変えていくために。

イベント告知

先日の文学フリマは大盛況でした。僕たちのブースもほぼ完売でしたが、やはり、わずか5時間でゼロアカ道場生の批評同人誌が計4000部近く売れたという「事件」が衝撃でした。でも、何よりも胸を打たれたのは、東浩紀さんはじめ道場生の方々の真摯な姿勢でした。他方で──第一回文学フリマのときの僕らのように──虎視眈々とイベントの盛況を睨んでいた人もいるはずです。さらに、抽選に落ちた、地方在住、休日出勤その他の理由で会場に来れなかった人も。熱気に満ちた会場のなかで、自然とそんな人たちのことを思い浮かべていました。

以下出席予定のイベントです。

シンポジウム・ロスジェネ世代からの「反貧困」のプロジェクト | 市民社会フォーラム

Kakuya Ohashi and Dancers 大橋可也&ダンサーズ: 帝国ナイト