大澤信亮

批評家・日本映画大学准教授

映画『大地を受け継ぐ』

井上淳一監督の映画『大地を受け継ぐ』が劇場公開された。

数年前、東日本大震災について「出日本記」(『新世紀神曲』所収)を書いたとき、私が考えていたのは「自殺した農家の男性」のことだけだった。

地震原発についてなら書くことも語ることもできる。しかし、震災にさいしてもっとも衝撃を受けたこの出来事については、書けない。「もう作物を作ることができなくなった」という理由で自ら死を選んだ人がいる。ここから始めなければ意味がないのに、それを語ろうとすると、自分が生きてしまっていることへの自問が生じる。それで、何も書けないまま、一年くらい、毎週のように自堕落に温泉に通ったり、否応なく与えられる勤め先の仕事をしたりしていた。

この映画の主人公の樽川和也氏は、自殺した男性の長男である。

樽川氏は放射性物質に汚染された父の農地を「受け継」いだ。それは「有害な食べものを他の人に食べさせている」(現実には厳しい測定のため放射性物質が含まれているものは出荷できないのだが)という「罪」の意識を受け継ぐことに他ならなかった。父は弱かった。何も死ぬことはなかったのに。だが、そんな弱く優しく誠実な心が、最高の食物を作り出していたのだ。氏は東京電力や政府の対応を厳しく批判する。それは絶対に必要なことだ。しかし、父が死を選ぶほど拒絶したことを、自分はやっている。そうやって生き延びてしまっている。おそらく、樽川氏を真に苦しめているのはこの矛盾であり、それは賠償では決して解消されない。にもかかわらず、氏の言葉や表情の重みを深めているのが、この矛盾と罪の苦痛であることもまた疑えない。現場を捨てて逃げた人間、正確には、何も「捨てる」ことなくたんに移動できたため、事件の前後で矛盾も葛藤も生じない人間には、思い及ばない世界だろう。

人生を省みて、あのとき死んでいればよかったと思う瞬間があって、その思いは時を経て強まるばかりなのだが、それでもこうして生きている。かつては閃きで書いていたが、今は、与えられた環境と、時折耳目に入る励ましに感謝しつつ、自分でも毒か薬かもわからないまま、毎月、祈るように書いている。

そんな自分の現在を樽川氏に勝手に重ねて観た。きっと同じように無数の人が自分を重ねて観るだろう。

東日本大震災についての映画は、震災後、おびただしい数が作られた。大小合わせれば数千本と聞いた。この映画は、映像としての派手さはないし、震災についての知識を得るという意味では、より相応しいものが他にあるかもしれない。だが、私の問いを正面から受け止めてくれる映画は、これしかない。

樽川氏が悲惨な出来事について語るときの歪んだ笑顔が忘れられない。首を吊った父を発見したときのことを、氏は、震える声で感情を押し殺すように笑顔で話す。涙を引き継ぐのは子供たちである。一人の男子学生の目から涙がこぼれる。女子学生はうつむき鼻をすする。こうした場面がこの映画には無数にある。これらは映像以外のどんな表現でも描くことができない。必要なのは知識や情報ではない。感情の伝達なのだ。

ではその逆はどうだったか。樽川氏が子供たちの感情に伝染され、氏の生に別の光が差し込む瞬間は記録されていたか。上映中に再度確認したい。

今月の仕事

今年もよろしくお願いします。

以下、今月の仕事です。

連載「小林秀雄」第29回(「新潮」2016年2月号)。

浜崎洋介氏との対談「生きることの批評」(「すばる」2016年2月号)。

藤野可織氏『爪と目』(2015年12月23日刊行)の文庫版解説。

小林の連載は、日中戦争からノモンハン事件を経て、ついに第二次世界大戦に入りました。日独防共協定を無視しての独ソ不可侵条約、その直後のポーランド侵攻(第二次大戦勃発)という流れは、国家間における条約や協定の意味を改めて考えさせられます。また、話のいきがかり上、アウグスティヌスの『告白』と『神の国』を読み直しました。前者は山田晶氏訳が素晴らしいです。人を殺すことに苦しんだパウロの罪の意識がキリスト教を創り、その三百年後、十五年連れ添った内縁の妻を捨てても止まぬ情欲に苦しんだアウグスティヌスがそれを固めたとすれば、キリスト教脱構築するとはどういうことか。

浜崎さんとの対談は、箱根の温泉旅館「福住楼」で、14時間に渡って(帰りのロマンスカーも含めて)行われました。浜崎さんと会うのは初めてでしたが、古い友人と語り合うような心が通った対話になりました。改めて浜崎さんに感謝します。誌面に反映されたものは、たくさんのことを話したなかの本当にごく一部なのですが、ちゃんと話している感じが出ている、よいまとめになっていると思います。分量だけで言えば、会議室で2時間も話せば十分なところを、じっくり温泉で話したいという希望を快諾して頂き、長時間に渡る対話に同席し、自らそれをまとめてくれた担当の努力のたまものです。この「すばる」には「批評を載せる」という編集者の思いが漲っており、他の著者の文章も気合が入っています。そうそうあることではないので、ぜひご購読を。

藤野さんの本の解説は「波」に寄せた書評の再録です。

三年目になる映画大学のゲスト講義では、思想家の前田英樹氏をお招きすることになりました。それで年末は氏の著作を読み直していたのですが、未読だった『ベルクソン哲学の遺言』に感動しました。ベルクソンについてベルクソンのように書かれたこの本は、読む者自身をベルクソンのようにしてしまう。これは僕の思う理想的な本の在り方なのですが、それが実現されることは極めて稀です。ベルクソンは大学時代にドゥルーズ経由で読みましたが、今は小林経由で読み直すなかで、そのすごさが改めてわかってきた気がします。ベルクソンの思考は驚くほど単純ですが、問いの立て方と答え方、あるいは「生きていること」への感度の強さにおいて、僕にはとてもしっくり来ます。あまりにしっくり来るので、むしろ批判的に見る必要があるかもしれない。

年末は友人たちと恒例の食事をし、朝の築地を回ったあと、上野動物園に行きました(目当ての国立博物館は休館中)。互いに無関心に草を食む猿たち、その間を走り回る子猿たち、群れの外れで睦み合う猿のペアなんかを見ながら、クラナッハの「黄金時代」を思い出していました。静謐な時間でした。

最近の仕事

箱根が心配ですが、久しぶりの更新です。

この間の「小林秀雄」の連載の見出しは、19回(登山とスキー、深田久弥、「私小説論」)、20回(純粋と通俗、「思想と実生活」論争、中野重治)、21回(中野重治(続)、創元社)、22回(アラン、菊池寛)。次回は日中戦争と「「日本的なもの」の問題」について書くことになると思います。

連載以外の仕事は以下。いずれもまだ刊行されていませんが、数ヵ月以内に刊行されるはずです。

野呂邦暢『失われた兵士たち 戦争文学試論』解説(文春学藝ライブラリー)
小島信夫『城壁/星 小島信夫戦争小説集』解説(講談社文芸文庫
北大路魯山人魯山人の真髄』解説(河出文庫

今月の仕事

「新潮」2月号の「小林秀雄」第18回は「ドストエフスキイの生活」について書きました。

「すばる」2月号に「私批評」という批評文を書きました。単独の批評文としては2年ぶりです。なかなかひどい感じですが、力を尽くしたものでもあり、認識的な発見もありました。べつに勉強にはなりませんが──教訓はあるかもしれない──こういう文章を面白がってくれる読者がいることを切に望みます。

昨年末の映画大のゲスト講義では、郡司ペギオ幸夫氏をお招きしました。講義はたいへん面白く、打ち上げでは何度も爆笑しました。

利用中のプロバイダーサービスの終了に伴い、間もなくホームページがつながらなくなります(いずれべつのプロバイダーで復活させるつもりです)。

色々あっても「猫の生活力」(ドストエフスキー)で何とか生きています。

最近の仕事

このところ更新が滞っていたのでまとめて報告します。

「新潮」10月号の「小林秀雄」第15回は林房雄と喜代美夫人について、11月号と12月号(第16回と第17回)は2回にわたって小林の戦前のドストエフスキー論について書きました。『永遠の良人』、『未成年』、『罪と罰』、『白痴』、(『地下室の手記』)、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』。小林がこれらの作品をどのように読んだのかを追っています。同時に、ドストエフスキーを読んだことがない、あるいは読もうとして断念した人への導入になるように心がけました。

12月発売1月号は新年号のため連載は休載です。

今月の仕事

「新潮」9月号の「小林秀雄」第14回は、1933年前後の日本共産党と「転向」について書きました。

 この連載は小林秀雄という人を描くことを目標にしていますが、小林について知ろうとすると、小林の生きた時代について知らなければならない、ということが多々あります。また、連載ではあまり言及できなかったが、あらためて読み直すと「いい」と思える作家がいます。たとえば、広津和郎本多秋五、次回で言及する林房雄などは、以前とはずいぶん違った印象で読めました。今回の本多について言えば、鶴見俊輔らによる『共同研究 転向』の書評で、この本の自由で実証的な姿勢とその成果を最大限に評価しつつも、〈まだ本当に書きたいことが書けたという気がしない〉と言い、1939年の秋に宮本百合子が新聞に発表した「犬三題」という文章についての〈思い出話〉を書いています。このエッセイは、三匹の犬を、共産党員、プチ・ブル、ブルジョアに見立てたもので、本多は〈そのころ東京逓信局という役所につとめていて、その役所の一隅で読んだのだが、こみ上げてくる笑いを、愉快に笑って話し合える友はそこに一人もいなかった〉と書いた上で、こう続けます。〈私はもちろん、宮本さんのように堂々とも毅然ともしていなかった。ただの小役人であった。しかし、彼女の一日たった三枚ほどの文章は、そこに「旗」がある、と思わせた。奪われも倒されもせず、そこに「旗」があると思わせた。その時代にそう思うことは、無限の強みであった。/『昔の火事』という小説があった。もう四〇年に入ってからの小説であった。わけのわからぬ、どこにも宮本百合子らしい骨の見えない小説であった。しかし、御時勢に恭順の意を表した文句はカケラもなかった。「旗」は見えかくれにはなったが、まだあそこに確かにあるのだ、と思えた。それは強みであった。/この話と、共同研究『転向』上巻と、どういう関係があるか、私にもよくわからない。しかし、私はこのことをここに書き添えておきたいのだ〉(「共同研究『転向』の書評」)。本多は鶴見らに「そこに人を励ます旗はあるのか」と問うているのです。いや、転向について書く者たちすべてに。

今月の仕事

「新潮」8月号の「小林秀雄」第13回は、「Xへの手紙」について書きました。

 以下の文章は、「文學界」8月号に掲載される予定だった、杉田俊介氏『宮崎駿論 神々と子どもたちの物語』の書評です。担当とのやりとりは順調に進んでいたのですが、ゲラの再校の時点で、編集長から「通常の書評に近い形へと変えてほしい」という要求があり、それを僕が受け入れなかったため、先方からすれば「掲載拒否」、僕からすれば「掲載取り下げ」という結論に至りました。

 私信

 すでに私は、この本の書評を六月八日付の産経新聞に書いており、それは今のところネットで無料で読める。紹介的な概要についてはそちらを読んで頂きたい。いきなり私事で恐縮だが、この一年、なるべく書評を受けるよう努めてきた。そういうことも含めて文学の現場に関わろうとしてきた。だが今回を最後に辞めることにする。だから同じことを繰り返したくない。一言だけ言えば、これを読まずに何を読むのか、そういう本である。
 読んでいて何回も涙が出た。「すばる」(六月号)の「長渕剛試論」や、「支援」四号の「弱さという生業」の草稿を読ませてもらったときも。もう『無能力批評』から六年か。その間、「書くことからの引退も考えている」なんて言葉も聞いていたから、この数カ月の間に杉田さんの文章が矢継ぎ早に発表されたことは、とても嬉しい。それらは一つの核を共有しているように思えた。人が自分の弱さに向き合うということ。でもこれは途轍もなく難しい。誰だってダメな自分を見たくないものね。だから、たとえば、強さや、情報や、娯楽や、仕事や、恋人や仲間や子供や、言葉に逃げようとする。それは時として、素晴らしい成果をもたらすけれども、本当にすごいものって、そういうものじゃないんだよね。
 生きていることのどうしようもなさ。それ自体を生存の原理として見出すこと。そんなことがもしできたら、きっと、生きるということの意味が、コペルニクス的に回転するだろう。たとえば地球の歴史はしばしば弱肉強食としてイメージされる。でも、よくよく考えれば、個体としては強者どころか、むしろ未熟な状態で生まれて来る人類が、地上に生きることを許されたのは不思議だ。それは知性が強かったからだ、と考える人もいるかもしれないけど、では人間社会が弱肉強食かというと、そうでもない。むしろ、人類の歴史を見れば、一時的な社会的強者が、普遍的な社会的弱者に浸食される、しかもそれによって結果的に、強者的存在の生活それ自体も豊かになる、そんな風になっている。貴族と平民もそうだし、健常者と障碍者もそうだ。あるいは個体としては、時代に限定された強者が、快適に生を送るかもしれない。でも、人類史的に意味があるのは、弱者の方なんだ。
 この不思議な動力を杉田さんはつかもうとしている。それこそが生きることに苦しむすべての存在にとって本当の光になると。それが社会を根本から革命する原理になると。この希望はこの『宮崎駿論』にも通じている。
 宮崎駿の「自己嫌悪」に、杉田さんは自分を重ねている。自分は醜く下らない存在である。そんな自分への絶望が、少女、女性、子供への期待を生む。これが宮崎さんの精神構造ですね。これを救えなければ書く意味がない。映像分析や作品のトリビアみたいなのは根本的にどうでもいい。そういう姿勢で杉田さんは書いている。この愚直さがいいと思いました。そもそも僕は、宮崎作品がそんなに好きじゃないから、こういう「問い」が提示されなければ、何も考えなかったと思う。他にも、育児やヘルパーを通して熟成されたと思われる感覚や認識がたくさんあって、それは杉田さんらしくて、胸がつまりました。
 気になったのは論の進め方です。宮崎作品の良いところと悪いところを峻別し、前者を徹底せよと繰り返す論調が、杉田さん自身の主張を裏切っていないだろうかって。もちろん、これは粗雑な言い方で、杉田さんは良い悪いを区別しているのではなく、自己に閉じようとする宮崎さんを、執拗に開こうしている。ソーニャやアリョーシャがキリストに倣ってそれを行ったとすれば、杉田さんは自然の動力に即してそれをやろうとする。でも杉田さんと彼らは何かが違う。なぜだろう。
 杉田さんは本当に宮崎駿の苦しみに寄り添えているんだろうか。人間が骨の髄から腐っているということ。持ってはいけない欲望を持たされ、それを実現させないために耐え続けることで自己嫌悪を日々醸成し、そこに永久に救いはないということ。そういう苦痛が杉田さん自身にあるんだろうか。あるとは思う。でも、僕の感じでは、それを本当に痛感している人は、他人に対して「欲望を肯定せよ」とは決して言わない。むしろ禁止の言葉を言う。それに対して、杉田さんはどこか、安全な場所から言っている気がするんだ。
 杉田さんと今までもめてきた相手たちは、こう思っていたんじゃないか。なんであなたの期待に応えなきゃいけないの。その前におまえが生きろよって。大の大人ならともかく、倫生君が「お父さんは本当は僕に何かが足りないと思っているんだ」と感じてしまうとつらいんじゃないかと、少し心配です。
 杉田さん自身がそれに気づいているからこそ、「弱者暴力」(弱いものを愛する心がそれゆえに振るう暴力)が、繰り返し警戒されるんだろう。それが杉田さんの弱さなのでしょう。杉田さんは、倫生君が入院したときの自分の取り乱した弱さを語るけど、それはとくに固有の弱さとは思えない。それよりも、子供に対する過剰な思い入れに、不吉な予兆を感じる。自分が空っぽだからこそ、自分の外に愛するものを求め、それを思い通りにしたいという欲望。それが批評なのか。わが子が生まれたという決定的な出来事から放射される光。僕には眩しい、眩し過ぎる光。その光さえも杉田さんを変えることができなかったのか。違うと思う。僕は杉田さんの語りの微細な変化に福音を感じる。変えられないという絶望を味わったとき、より宮崎さんに近づけるのだとしても、あの杉田さんの喜びはきっと、もっと先の何かに届いている。だから杉田さんは宮崎さんと戦おうとしたのでしょう。寄り添うことを超えて。それでいい。自分の子供が誰かを殺してしまうかもとか、自分を殺しに来るとか、余計なことを怖がらず、あの喜びで全身を満たしながら、新しい書き方を見つけていけばいいんだ。きっとできる。
 紙数が尽きました。もともと連絡が途絶えがちだったけど、この半年近くは電話もメールもしてませんね。でもこれでいいと思う。

今月の仕事

「新潮」7月号の「小林秀雄」第12回は、「眠られぬ夜」と「おふえりや遺文」、それから坂本睦子と小林の関係について書きました。

本日付の「産経新聞」に杉田俊介氏『宮崎駿論 神々と子どもたちの物語』の書評を書きました。

なお、杉田氏の本については、来月に発売される「文學界」8月号でも、より長めの書評が掲載される予定です。

今月の仕事

今月は大学の新学期の開始などで忙しく(今年一年、法政大学でもゼミと大学院を教えます)、報告が遅くなりました。

「新潮」5月号の「小林秀雄」第11回は、初期の連載文芸時評の文芸面、とくに横光利一谷崎潤一郎室生犀星里見紝について書きました。

来月の「新潮」は創刊110周年記念号ということで、誌面の構成上、連載は休みです。ただ、滝口悠生氏の『寝相』の書評を書いています。

今月の仕事

「新潮」4月号の「小林秀雄」第10回は、初期の連載文芸時評(「アシルと亀の子」以下)について、とくにマルクス主義者との論争について書きました。次回は文芸面について書きます。

「群像」4月号で大澤真幸氏『〈世界史〉の哲学 東洋篇』の書評を書きました。

「すばる」4月号で中島岳志氏と対談しています。

中島さんは、僕にとって、数少ない物書きの友人の1人です。だからこそ、踏み込むべきところは踏み込めるし、お互いに自分の弱点を率直に語った上で、これからのことを話せるのだと思っています。これまであまり語ってこなかった、なぜ小林の評伝を書いているのか、ということにも触れています。

最近の仕事

「新潮」3月号の「小林秀雄」第9回は「様々なる意匠」について書きました。

「群像」3月号で大澤真幸氏と対談しています。

「波」3月号(今月27日発売)で古井由吉氏の『鐘の渡り』の書評を書きました。

昨年末以来、大学の講義と入試業務、その合間に原稿を書くという日々が続いており、近況を報告するタイミングを逃していました。今月もまだ、7年ぶりにパソコンを買い替える準備を進めたり、その他もろもろで落ち着きません。

真幸さんとの対談(どちらも大澤なのでお互い名前で呼び合うのです)は、読んでくれた方から「読み逃さなくて良かったと心底思いました」と言ってもらえる、充実の内容となりました。思えば僕の文芸誌での対談は初めてです。改めて真幸さんに感謝します(この対談を踏まえて来月の「群像」で『〈世界史〉の哲学 東洋篇』の書評を書きました)。

それから古井氏の書評、分量はそれほど多くありませんが、今年最初の書評としてこれを書けたことに満足しています。「波」のサイトで読めるようになるはずなので、気に留めておいて頂けるとありがたいです。

東浩紀氏との公開対談について

0 雑誌掲載の拒否について

12月7日に行われた、日本映画大学の講義「ジャーナリズム論」における東浩紀氏と僕(大澤信亮)の対談は、雑誌「文學界」2014年2月号に掲載されることで、双方の了解を取っていました。対談自体は非常に荒れたものの、終了後も、東氏は掲載を承諾していました。が、翌日になって突然、「文學界掲載なしで」とのメールが氏から僕に届き、雑誌掲載については版元が責任を負うという当然のルールから、「文學界の方にお伝えください」と返すと、「いや、きみの責任でよろしく」と返ってきたので、再度「僕が関わる余地はないと思うのですが」と返すと「はいはい」というメールが届きました。僕は、掲載を約束して公開で行った対談の活字化を反故にするのは、言論人としてあるまじき振舞いだと思うので、そのような行為を許した覚えはありません。ただ、著作権上、一方の拒否があれば受け入れざるを得ないので、やむなく了承しただけです。

しかし、東氏は、自分で掲載を反故にしたにもかかわらず、失態を恥じるどころか、それを取りつくろうために、事態を一方的に語っています。これはおかしな話ですし、あの場で生じた出来事をなかったことに、あるいは嘘にしてしまうので、あくまで僕の側からですが、あの対談について説明責任を果たさせて頂きます(公開対談の批評という性質上、引用は必要最小限に止めたため、表記を簡略化した箇所もありますが、語句自体は原則として音声から起こしています)。

1 議論の出発

僕は「復活の批評」発表時、東氏が雑誌の刊行前にこの論文の批判キャンペーンをツイッター上で行ったことが、とても不愉快でした。早めに届く関係者しか読めない状態で、一方的にアングルを作ってしまうことは、不公正な態度だと思うからです。とはいえ、そのような反応が現れるのもまた論争の一面かと思い、これ自体は仕方のないことと考えていました。ところが、東氏は自分の作る「思想地図」が発売前に会員に届き、その方が批判的なツイートをしたとき、刊行前に批判するな、と怒りました。これは単純におかしいと思いました。僕はこの種のダブルスタンダード(自分がやるのはいいが、他人がやるのは許さない)が、氏の言論の核心にあると感じていたので、それについて氏がどう考えているのかを聞くことから始めました。ここを聞いておかないと、以後の対話がすべて、虚しくなると思ったからです。すると氏は「前者は個人的宛先として批判されたものへの反応であり、後者は版元としての反応だから、別のレイヤーの問題だ」と答えました。そして「こんなシケた小さな問題ではなく、もっと大きな普遍的な問題から始めたほうがいい」と。しかし、僕には、東氏の言い方は詭弁にしか聞こえませんでした。僕の「宮澤賢治の暴力」は、振るわれるのは嫌だが振るうのは構わないという一般的な感覚を超えた、普遍的な「痛み」から出発したものでした。この痛みの感覚は、自分自身が予言した通り、年々強まっています。周囲を見ても、東氏だけでなく、あれだけオタクの「レイプファンタジー」を批判した宇野常寛氏がアイドル評論家となり、かつて「経済的自立は精神的自立の必要条件である」と迫ってきた鎌田哲哉氏が、それとはほど遠い生活を自分に許し、しかも、彼らが、そこに対する根本的な自己批評を欠いた言葉を流し続けているのを悲しく見ながら、「なぜ人は自分の言葉を真直ぐに自分自身に突きつけられないのか」という問いこそが普遍的なのだと、僕は確信しています。他人事ではありません。食べることの暴力を論じた僕自身の食生活が、人が聞けば驚くようなものだと思います。こういう、自分が自分を裏切り続ける経験を繰り返していれば、生きているのが嫌で死にたくなるに決まっている。この感覚は東氏にも通じるのではないかと思ったのでした。一見どんなに「大きな」社会問題やプロジェクトも、一瞬でネタ化し消費され風化してしまう。このサイクルの外から考えるためには、諸個人の意志や気質の差を超えて反復される、この強迫それ自体を普遍的な問題として把握し、そこから発言や実践を行うしかないのではないか、というのが僕が議論の出発にしたかったことでした。東氏は結局「それは僕が二枚舌だっていうことでいいですよ」と切り捨てるように言いました。以後の対話の急所で、この「二枚舌」が現れるのを見るとき、かつて「復活の批評」で書いた東氏の「内省の拒絶」の根がここにある、との思いを強くしました。

2 争点1 「ゼロ年代」の評価について

東氏は「1.大澤はゼロ年代の言論を無価値と言っている。2.しかし自分(東氏)はゼロ年代の言論に支えられている。3.だから大澤には自分(東氏)を論じる資格はない」という主張を何度も繰り返しました。この論理も僕にはまったく首肯できません。まず1はそう言ってよいと思います。しかし、2.東氏が本当にゼロ年代の言論とイコールなのかという問題があります。さらに3.かりにそうだったとして、東氏を「ゼロ年代」とはべつの視線で論じることは許されないのかという問題があります。東氏の主張の前提には「文学者には駄作や間違いはない。人生全体が一個の作品だから。つまり東浩紀の仕事の中で2000年代はゼロだと言ってるやつは、僕の仕事の意味なんて何一つ分かってない」という考え方があります。しかし僕は、すべての仕事がその思想家の表現であるとしても、そのすべてが肯定されるべきでもなく、むしろ、否定や検討において、その思想家を次の局面に進める性質の仕事もあると当然考えます。たとえば「復活の批評」は、「ゼロ年代」を否定する一方で、それとは違う可能性を『一般意志2.0』や『クォンタム・ファミリーズ』などの、氏の2000年代の仕事に見出そうとするものでした。しかし、東氏はこの姿勢を決して認めず、僕が「間違っていた」と認めなければ話せない、と主張し続けました。そのように主張する氏自身は、かつて『存在論的、郵便的』で第二期デリダを特権的に論じ、また、ある座談会で、柄谷行人氏に対し「ぼくは『探究』の初期はすごく高く評価していますが、後半はそうでもない」と語っています(「トランスクリティークと(しての)脱構築」)。これも僕には「二枚舌」に思えますが、指摘するのも虚しいのでいいです。いずれにせよ、話したいなら「ゼロ年代の言論」を肯定しろと言われると、そこに価値を認めないと言った瞬間に対話が終わってしまいます。僕はなんとか対話を続けたかったので、どう答えればよいのか悩み続け、それは会場では長い沈黙として現れました。それで問いの方向を変えようと思い、氏が3・11の後にゼロ年代の言論を否定していたことを根拠に、それを否定しても議論は可能なのではないか、と問いかけてみました。それに対する答えは、ゼロ年代の言論は「自分のもの」だから、それを「内部」から「本来は別の可能性に行くはずだった」と批判してもいいのだ、という、これも到底承伏し難い主張でした。こういうところにも氏の「二枚舌」はあって、同じ理屈で言えば、僕は氏が思想家・批評家と名乗る以上、そこは自分が関わる世界なので、言いたい事が出てくるわけです。しかし、内だからいい、外だからダメというのは、本当はどうでもいいことです。誰にだって批判する権利はあるのだから。ともあれ、僕自身も正面から答えていると思えず、結局、この問いに対して僕は最後まで明言を避けました。しかし、対話が終わり、掲載も拒否された今なら、明言できます。やはり「ゼロ年代の言論」は無価値です(付言すれば、2000年代には僕自身も関わった若年労働問題などの言論もあり、それらの価値を否定するわけではもちろんありません。また、僕が「無価値」と言った「ゼロ年代の言論」とは、そもそも宇野氏の『ゼロ年代の想像力』から来ている言葉で、当時の宇野氏が文化論だけですべてを語り、僕たちの若年労働運動を揶揄的に否定していたことへの反論として書いたものです。それを東氏がなぜか「自分のもの」「明らかに射程は僕なんだよ」と譲らない理由がわかりませんでした。対談後に「復活の批評」を読み直しましたが、僕が一貫して東氏を批判しているのは氏の「内省の拒絶」であり、どう読んでも「ゼロ年代の言論」は「若手の軽薄さ」を指しています。また、対談の場でも言いましたが、僕は出自がマンガ評論であり、サブカルチャー批評自体を無価値と言ったことは一度もありません。3年前の「復活の批評」のときもそうでしたが、こういう印象操作を繰り返していると、むしろダメになるのは自分自身の方だということがなぜわからないのか、不思議です)。

3 争点2 読者や客に対する眼差し

東氏はゲンロンカフェのお客について「ユーザーってある意味ですごいちゃらいもんだよ」と言いました。さらに「お客さんというのは、ある意味でほんとに驚きなんて求めてないんですよ。お客さんが求めてるのは安心感なんです。二千五百円を払って、自分が知ってる話を聞きたいんですよ」と言いました。それに対して僕が「でも、そうじゃないものを期待してるわけですよね」と聞くと、東氏は「そうじゃないものなんて、僕は期待してない。それはもう厳然たる事実としてあって、そういうことをやることによってプラットフォームを作って、別のことをやれるような体力をどう付けるか、ということを考えているだけですよ。そこでお客さんへの期待とか、それはほんとにないです」と言いました。あるいは僕が「福島第一原発観光地化計画」の「旅の終わりに」に言及したところ、東氏は、あれは「文学・哲学ユーザーのために書いてる」「ああいうのは絶対感動するんですよ」「あとがきってサービスじゃん」と言いました。僕はこの姿勢にまったく賛同できません。自分の本を読んでくれる、イベントに来てくれる、そういう人たちに向ける態度とは到底思えません。そうやって、自分から読者やお客さんを馬鹿にする姿勢でものを作り続ける一方、本当の自分は理解されないと嘆く態度は、言語道断に酷いものだと思います。何より、そうやって作っているかぎり、たとえどんなに数が刷けても、根本的に虚しいに決まっています。僕はこれまで、文学や思想の外を目指す氏の実践を、畏敬をもって見てきました。しかし、心の内では自分の本の読者を馬鹿にしつつ、そんな人たちでも飛び付きそうな企画を考えるというのは、誠実ではないし、知性の使い方を著しく間違えていると思います。東氏は、自分が文学や思想の外にいる他者に向き合っていると豪語するのですが、その実行の根っこに、こんなに醜く淀んだ精神があるなら、そんなものは他者に向き合っているなどとは到底言えません。他人を巻き込んだ単なる自己顕示に過ぎません。これは今に気づいたことではなく、うすうす勘付いていたこととは言え、それを本人に、目の前で、はっきりと言われたことは決定的で、今まで東氏の本を買ってきた自分を省みても、このような姿勢で作られている氏の本をもはや買う気になれません。作り手としての姿勢に倫理的に腹が立つというだけではありません。どんな気持ちで作っていても、商品・サービスとして優れているなら、文句を言うつもりはありません。しかし正直に書けば、これまで、注目させるのはうまいが、中身は物足りないと思いつつ、それでも氏が度々こぼす「だって柄谷行人を読んで僕を読んでるやつなんか、もういないじゃん」という愚痴を聞いたりすると、初期から読み続けてきた人間として、氏のなかにあるはずの何かに期待して、言動をずっと見続けるつもりでいました。しかし、こういう姿勢こそが東氏を苛立たせ、また勘違いさせ続けるのなら、この精神の悪循環を微力ながら断ち切る手助けをするために、今後はむしろ、読むべきではないものと考えることにします。対談中に僕が言い続けた「この私」が問われるとは、こういうことで、私小説的な記述を意味するわけではありません。

4 争点3 新人批評家の輩出

東氏は、自分は宇野常寛氏、濱野智史氏、福嶋亮大氏、藤田直哉氏その他の人たちを「全部」「育てた」、それに対して文芸誌の側は何が言えるんだ、と主張しました(諸氏が、東氏によって育てられた、と単純に言うのかどうかはわかりませんが、彼らが東氏に接触していた時期があるのは、傍目から見る限り確かなように思えます)。僕は、文芸誌を主な仕事舞台とする人間として、より正確に書けば、最後の「新潮新人賞評論部門受賞者」として、つねにそのような問いを自らに課し続けています。漠然と問うだけなく、具体的な目標や企画を立ててもいますが、実現していない以上は何も語れません。それから、福田和也氏に教えを受け、大塚英志氏に仕事を、鎌田哲哉氏に姿勢を学んだ僕は、現在の関係がどうなっていようと、彼らが僕にしてくれたことと同じことを若い人たちに返そうと決めて、実際に振る舞っています。とはいえ、そこから新しい書き手が出て来るかどうかは、わかりません。この問題について現時点では東氏にアドバンテージがあることは認めます。僕の本を読んだ未知の読者や、本を通して出会った人のなかから、何者かが現れて欲しい。ネットを使った喧伝や野合や印象操作ではなく、書くこと自体で勝負できる人が出てきて欲しい。直ちに時限性が問われる性質の問題ではないので、そういう人が一人でも現れてくれれば、それが氏に対する答えになると思います。なお、2000年代の文芸誌については、僕を輩出したというのが答えになると思います。そういう責任と覚悟でやっています。

5 最後に

東氏が「争点1」の主張を貫くかぎり、僕には氏と対話する術がありません。しかし、当日の場にいた方は見ていたでしょうが、あの激昂と罵倒に曝されている最中でも、僕は、氏に対する怒りは湧かず、むしろ、そう語るしかない氏を理解しようとしていました。僕は氏の「ソルジェニーツィン試論」での、イワンとアリョーシャの対話を思い出していました。どう答えても間違える問いをふっかけられながら、その試しのなかに、何かしらの期待を感じていました(公正のために記せば、氏はけっして席を立とうとせず、また、僕の発言を遮るようなことも基本的にはせず、何より、長い沈黙を待ってくれました)。文学論や政策論を空疎に交わすよりも、こういう話しこそが、文学なのだと感じていました。とは言え、僕自身は、あれからずっと無力感を覚えています。アリョーシャになれなかった。あるいは「ゼロ年代の言論を認める」という一言が「銃殺です!」に値する言葉だったのか。その「ばかなことの上にこの世界は成り立っている」(『カラマーゾフの兄弟』)ことを認めることが、東氏に近づくことだったのかもしれません。しかし、本心では思っていない言葉を口にすることは、僕にはどうしてもできませんでした。それでも最後にこれだけは言っておきます。やはり「誰も言ってくれないけど全部繋がっている」ではなく、誰が見ても明らかに『存在論的、郵便的』を正面から超えた本を書くしかないと思います。どんなに売れようが、ツイッターのフォロワー数が何人いようが、それを利用した集団的な叩きを行おうが、前にも言った通り、僕には一切通用しません。しかし、決定的な一冊の本に対しては、頭を下げる覚悟は出来ています。それを書くために、もし僕の力が必要なことがあれば、またいつかお会いしたいと思っています。

今月の仕事+連続対談

「新潮」12月号の「小林秀雄」第6回は長谷川泰子について書きました。
「群像」12月号に大江健三郎氏『晩年様式集』の書評を書きました。

双方、この一年で自分が書いた文章のなかで、一番を競うものになったと感じています。

それから日本映画大学の今期のゲスト講義が決まったのでご報告します。最近、メディア露出的には大人しくしていましたが、現在に対する餓えを失ったわけではありません。やるときは、やりますよ。

12月 7日(土) 東浩紀
12月14日(土) 中島岳志
12月21日(土) 杉田俊介
 1月11日(土) 山城むつみ
 1月18日(土) 大澤真幸

詳細は日本映画大学ホームページまで。

今月の仕事

「新潮」11月号の「小林秀雄」第5回は中原中也について書きました。

中原については大岡昇平をはじめ、すでに相当語られてきたので、今回は「名辞以前」という言葉に中原が込めていたものと、詩・書簡・日記などでの小林との接点を書き残すことに集中しました。意外と小林の側から二人の関係を完全に整理したものはなく、次号の残りの部分も併せると、彼らの関係について現在残されている当事者資料の(ほとんど)すべてに言及したことになるはずです。このまとめ方自体が新しいとは言えるかもしれません。

なお今回初めて「この章つづく」で終わりました。執筆が追いつかなかったのではなく、むしろ規定の枚数を超過したため、入り切らなかったのでした。いちおう毎回一章完結のつもりで書いてきたのですが、都合よく規定枚数に収まってくれるものでもないし、必要な部分を切り捨てるわけにもいかないので、今後もあるかもしれません。